書評
2014年7月号掲載
なぜ雲右衛門を「先生」と呼ぶのか
――岡本和明『俺の喉は一声千両 天才浪曲師・桃中軒雲右衛門』
対象書籍名:『俺の喉は一声千両 天才浪曲師・桃中軒雲右衛門』
対象著者:岡本和明
対象書籍ISBN:978-4-10-324532-2
私たち浪曲界のものは、必ず「雲右衛門先生」と呼びます。会ったこともない人を、なぜ「先生」と呼ぶのかは、本書をお読みいただければわかります。
浪曲(浪花節)は、いまでこそ浅草・木馬亭のような定席もありますし、劇場やライブハウスなど、どんな場所でも普通に公演できます。しかし明治時代後期までは、ほとんど「大道芸」のような扱いで、多くが露天か、囲いだけのお粗末な小屋でしか公演できませんでした。たまに寄席に出してもらえても、ほかの芸人さんたちから「浪花節と一緒とは、どういうことだ」と抗議されるありさまでした。つまり浪曲は「差別される芸能」だったんです。
そこへ登場したのが、桃中軒雲右衛門先生です。九州へわたって、政治結社・玄洋社の頭山満らと知り合い、彼らの協力を得て「武士道鼓吹」浪曲の名作『義士銘々伝』を完成させます。また、当時の弟子に桃中軒牛右衛門がいました。辛亥革命で孫文を助けた宮崎滔天の、浪曲師としての芸名です。彼を育てたのも先生なんです。
東京へ進出した先生は、ついに有栖川宮妃殿下の御前で『赤垣源蔵徳利の別れ』などを言上します。「差別される芸能」を、皇族が鑑賞してくださったのです。これは浪曲の歴史に刻まれる画期的な出来事でした。さらには、歌舞伎役者たちの反対を押し切って歌舞伎座で独演会を開き、満席にします。テーブルの上に布を被せ、後ろに金屏風という現在の舞台スタイルも先生が創始者です。
このように、露天の大道芸だった浪曲を、雲右衛門先生が、一挙にレベルアップしてくださったわけで、だからこそ私たちは「先生」と呼ぶんです。
ところで、先生の声はSPレコードで残っていて、いまではCDで聴くこともできます。実に独特の声ですが、どうも声質だけじゃなくて、声量もすごかったようです。実は雲右衛門先生の弟子の一人に東家楽燕という名人がいまして、その弟子・東家幸楽が、私の師匠なんです。そんな関係で、いろんな逸話を伝え聞いています。特にマイクのない時代に、当時千七百席の歌舞伎座を満員にし、隅々まで声を響かせたっていうのは驚異です。これ、野球でいったら球速百七十キロを平気で出すような身体能力です。いま、木馬亭が立ち見まで入れて約二百席ですが、ここで響かせることだって、なかなかたいへんなことなんですから。どうやら、マイクが登場する以前の明治時代は、人間ワザとは思えない声を出す浪曲師がいくらでもいたらしいです。たとえば、昔は、声を響かせるために天井にピアノ線を張っている小屋がよくあって、声量のある浪曲師は、そのピアノ線をスピーカー代わりにビリビリ震わせたそうですよ。ところが雲右衛門先生には、そんなもの必要なかったそうです。
今回、岡本和明さんが書かれた本は、そんな先生の生涯が、わかりやすく描かれた、とても面白い伝記です。書き手が雲右衛門先生の曾孫で、もともと落語などの演芸評論をやっておられる方だというので、驚きました。写真を見せていただいたら、面長なお顔がそっくりじゃないですか。
この本で重要なことは、浪曲が貧民街で生まれた、「差別される芸能」だったことを、はっきり書いた点だと思います。それだけに、いかに雲右衛門先生たちが苦労されたかが、身に沁みました。
いまの若い方々は浪曲に対し、「時間が長そう」「何を言ってるのかわからないのでは」と感じるようですが、それは誤解です。もちろん長い演目もありますが、ほとんどは二十~三十分で、すぐに物語の核心をお楽しみいただけます。また、言葉は普通の日本語です。少々古めかしい言い回しもありますが、日本人なら、聴いてわからないはずはありません。
今年は雲右衛門先生の百回忌で、さらに昭和の人気浪曲師・広沢虎造先生の没後五十年です。この機会に、ぜひ本書を読んで、その苦難の歴史を知っていただき、浪曲を聴きにいらして下さい。絶対に損はさせません。間違いなく感動させてさしあげます。浪曲は日本人の心のふるさとなんですから。
(くにもと・たけはる 浪曲師)