書評
2014年8月号掲載
嵐山光三郎、生を寿ぐ。
――嵐山光三郎編『文人御馳走帖』(新潮文庫)
対象書籍名:『文人御馳走帖』(新潮文庫)
対象著者:嵐山光三郎編
対象書籍ISBN:978-4-10-141912-1
嵐山光三郎精選、文人が綴った食をめぐるアンソロジーである。何度読んでもどうしてこんなに面白いのか。耽溺してしまうのか。答えは明白なのだが、その話をする前に、本書に登場する文人たちをまず紹介しておかなければ。
森鷗外。幸田露伴。正岡子規。泉鏡花。永井荷風。斎藤茂吉。種田山頭火。高村光太郎。萩原朔太郎。内田百閒。芥川龍之介。宮沢賢治。川端康成。稲垣足穂。林芙美子。堀辰雄。坂口安吾。檀一雄――十八人が生年順に登場、それぞれの「御馳走」を存分に披瀝する。ことに明治の文人は食べものにうるさい。それは、たんなる趣味嗜好や健啖のしるしには終わらない。行間からじんわりと滲み滴る執着。強情。創意。憂い。好悪の感情。または色欲。遊蕩……いやおうなく人間の業という言葉が浮かぶ。と同時に、おのれの官能をかくも解放して語る文人たちに、あらためて畏敬の念を抱く。
とはいえ、冒頭の森鷗外「服乳の注意」を読んで、思わずぷっと噴きだしそうになった。「牛鍋」(森鷗外は東京の料理店に精通していたという)に続く「服乳の注意」は、いわば牛乳についての啓蒙文で、「搾り取った牛乳の腐れ易いことは、世の知る所です」という一文で始まる。牛乳を相手にして厳格実直に語られる文章はいかにも森鷗外の四角四面ぶりそのものなのだが、申し訳ないと思いつつ、妙に可笑しい。さらには、嵐山光三郎による「解説」に、ずばりこう書いてある。
「鷗外は精力絶倫の人としても名がとどろき、六十歳で没したときかつての論敵坪内逍遙から『性慾研究を真先に随分大胆な形式で発表したのも君であつた』とたたえられた」
牛鍋、服乳、そして精力絶倫。さまざまな言葉が符牒のように飛び交い、その文学作品のみならず、森於菟や森茉莉の読み方まで微妙に変わってしまいそう。食べものという補助線を引くと、その作品と文人のひととなりが現れてくる……どころではなく、本書には、多種多様な地雷が仕掛けられている。
もうおわかりだろう。『文人御馳走帖』がめっぽう面白いのは、全編にわたって、つねに嵐山光三郎の目配りをつよく感じるからだ。碁盤にぴしりと打つ黒石、白石さながら、狙い定めた一編ずつに洒落と皮肉、そして文人たちへの洞察がある。かつて嵐山光三郎が著した『文人悪食』『文人暴食』は、文人と食の関係を解きほぐし、かつ近代文学を語るうえで欠かせない名著であることは言を俟(ま)たないが、本書は、その古書渉猟から生まれた稀少な収穫でもあるだろう。
この一編、と精選する視線に情がある。理解と共感がある。終始その視線を感じながら読み進む読書の面白みが、しだいに独自の色艶をまとってゆくのは当然のことだろう。『文人暴食』(新潮文庫)のあとがきには、こう書かれている。「『文人悪食』『文人暴食』二冊を書くために十年間(五十歳〜六十歳)を要した。それは、人間が食うことの意味を考えつづけた十年間であった」。あまたの文人の体内にもぐり込み、棲むようにして見据えた有象無象の食癖は、嵐山光三郎そのひとの血肉となって、このオリジナルなアンソロジーに投影されている。
高村光太郎の詩「米久の晩餐」が選ばれている。米久は、今も浅草二丁目にあるすき焼き屋。繰り返し登場するリフレイン「八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ」の響きが図太い。続いて、二編目の詩「梅酒」には、「死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は/十年の重みにどんより澱んで光を葆み、/いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。」三十一歳で智恵子と結婚した高村光太郎もまた、欲望の人だった。
「光太郎は『欲望の強さが私を造型美術に駆りたてる』と述懐し、食欲も性欲も暴風の激しさであった」
嵐山光三郎は、人間の業をとことん見据えてきた作家である。いよいよ老齢を迎えて「下り坂」にある自分を受け容れつつ、なお欲を享受し、野性を棄てず、生を寿ぐ。そのように生きるひとが「これ」と思い定めて精選した十八人・三十四編なのだから、味わいの濃さ深さは尋常ではない。
(ひらまつ・ようこ エッセイスト)