書評
2014年8月号掲載
『いま生きる「資本論」』刊行記念特集・資本主義と上手に付き合うために
マルクス理論で武装せよ!
――佐藤優『いま生きる「資本論」』
対象書籍名:『いま生きる「資本論」』
対象著者:佐藤優
対象書籍ISBN:978-4-10-133178-2
ガチンコ流
学者や研究者などというものには、努力さえすれば誰でもなれる。しかし知識人には誰もがなれるわけではない。知識人などという言葉は古臭い言葉だが、社会に対してガチンコで喧嘩を挑むものをいう。佐藤優氏はまさにそんな知識人である。ガチンコ勝負の佐藤流は喧嘩殺法でもある。
佐藤氏の喧嘩を強くしているものは、神学とマルクス理論である。神学とマルクス理論には、西洋思想のすべてが含まれているといってよい。だから喧嘩に強くなるにはこの二つをきっちりやればよい。それが佐藤氏の一貫した主張だ。
マルクスがああいった、こういったなどということは、学者に任せておけばいい。佐藤氏がマルクスについてあれこれ語るのは、人々を「今の価値観からの脱出」させるためである。要するに、今もっともらしく見えるものは、マルクス理論のような骨太の思想でみれば、たちどころにその底の浅さがバレるというわけだ。だから、マルクス理論を学んで世間の嘘を暴け、そのために武装せよというのだ。
宇野派で武装せよ
マルクス理論を学ぶにあたって何をお手本にしたらいいかというと、徹底した純理論にこだわった宇野弘蔵の原理論的読みがいいという。論理学や数学のように、理詰めにキチンとマルクスの理論を追って読むには、マルクスと格闘しつつ、自分の納得いく議論を積み重ねていった宇野が一番いい。これは佐藤氏の神学にも通ずるのであろうか。泥臭いカトリック的議論よりも、透き通ったプロテスタント的議論に佐藤氏がひかれたのもそんなところにあるのかもしれない。
もちろん、宇野派といわれる集団には、その行き過ぎの反動が哲学の不足として突きつけられている。徹底して理詰めに読めば、歴史や文学的なふくよかさが失われる。喧嘩は理論通りにいかないのだ。喧嘩をするには、理詰めと同時に、したたかさが必要だ。佐藤氏のこれまでの経験知は、そうしたふくよかさそのものである。
宇野的に読みながらも、脱線しまくる佐藤氏の議論には、理詰めの陥る危うさを補強する手だてがいくつも講じられている。それがいろいろな例である。もちろん、その経験知の話だけ読めば、爆笑ものだから、途中で反芻しないと何を言っているかがわからなくなる。要注意! なにせ250頁少々の本で、『資本論』全三巻を語るのだから、時にはこうしたあら療法も必要なのだ。
資本主義は崩壊しないのか?
宇野の原理論の特徴は、資本主義は崩壊せず、好景気、不景気が循環的に繰り返されるという点にある。だから、マルクスから社会主義などというものを原理論の中には入れない。佐藤氏は、資本主義の中でしたたかに生きていくための道具としてマルクスを読めと教える。今を生きぬく力として読めというのだ。それゆえ窮乏化や社会主義に関して佐藤氏はまったく問題にしない。
しかし、窮乏化や資本主義の崩壊論をマルクスから取り去ることは、やはり喧嘩の理論としても迫力を喪失する。マルクス殺法は、まさにこれがあるがゆえに、今でも恐れられ、畏怖(いふ)されているのである。
宇野はシュンペーターに似ているという表現があるが、資本主義を経済循環論だとして読めば、そう読める。
利潤率の傾向的低落の法則は、資本主義の没落との関連で長い間問題になってきた。シュンペーターの創造的破壊という概念は、それを乗り越える資本主義の切り札だが、いつも創造的破壊がありうるとは限らない。そうなると、賃金を下げることで切り抜けようとする動きも出てくる。最近話題になったピケティというフランスの若い研究者は、『21世紀の資本論』というほぼマルクスの『資本論』に相当する厚さの書物で、資本収入が労働者の賃金収入を大幅に上回る現在では、資本主義の崩壊は避けることはできないと主張している。ことの真偽はここでは問題にしないが、マルクス主義者ではないピケティですら、この亡霊のような利潤率傾向的低落の法則というマルクスの悪夢で、現在の所得格差と資本主義の崩壊を懸念しているのだ。
新しい世界への願望を
佐藤氏はこの問題をどう考えるだろう。マルクスの経済学は、現在支配的な近代経済学をけ破る、恐ろしい恐怖をうちに含んだ経済学であるともいえる。いやその限りで、マルクスの経済学は経済学それ自身を飛び越えていく運命をもっているともいえる。今の価値観から脱出するには、それを飛び越える新しい世界を創りたいという願望も必要なのだ。次に宇野的読みではない、神学者としての佐藤氏にこの問題を語ってもらいたい。
(まとば・あきひろ 神奈川大学経済学部定員外教授)