書評・エッセイ

2014年8月号掲載

不条理な世界への逍遥哲学

――石光勝『生誕101年 「カミュ」に学ぶ本当の正義 名作映画でたどるノーベル賞作家46年の生涯』

松尾羊一

対象書籍名:『生誕101年 「カミュ」に学ぶ本当の正義 名作映画でたどるノーベル賞作家46年の生涯』
対象著者:石光勝
対象書籍ISBN:978-4-10-335971-5

 著者である石光勝が高校時代にカミュの「異邦人」に衝撃をうけ、仏文学専攻を志したころ、見知らぬ先輩としてわたしはW大仏文科に籍を置いていた。赤と黒の2つの平行線で囲まれたクリーム色の簡潔にして瀟洒なガリマール社刊行の原書の最初の綴じをペーパーナイフで切り、「オージュールデュイ、ママン エ モルト」(今日、ママが亡くなった)とあまりにも有名な冒頭のムルソーの言葉に接していたのもまさにそのころであった。
 しかし著者とわたしとの差は、同業の放送現場を勤め上げた後六十数年経って、カミュが追い求めた「正義」と「自由」の間にまとわりつく「不条理」の真実について未だにこだわり抜く精神の若さの有無にちがいない。
「テレビは現在の証人、映画は時代の証人」(著者)であるならば、現代に拘泥するあまり出口なきジャングルにさ迷う軽薄なうがち(仮説)を乱費する「解説の時代」を標的とした警鐘の書でもある。一気に読んだ。
「優れた推理小説は良質なドキュメンタリーの骨格と文脈を有している」とよく言われる。著者はかって見た西欧の娯楽映画の数々からカミュの周辺をあぶり出しアリバイ崩しを試みる。時代の「犯人」はだれか、と。
 といって個々の洋画をめぐる興味深いヒントの数々を暴き横から読者の推理を邪魔だてする愚は避けたい。あえて触れないでおこう。それが推理ドキュメント作品への掟である。なぜなら当時は理解不能だった映像の名シーンがカミュの出自に重大な関わりをもつ。そうした場面を映像言語風に再現し、時代の犯人に接近するスリリングな構成に読者はある緊張感で導かれるはずだから。カミュに関する評伝やサルトルらの人脈をめぐる幾多の分析書への目配りも怠りはない。そこで一つだけヒントを紹介しておこう。
 それは「WHAT IS LIFEとHOW TO LIVE」(100ページ目の項目)における広津和郎対中村光夫の有名な論争のことだ。広津和郎は「ムルソーの考えている事が、WHAT IS LIFEに止まって、HOW TO LIVEという思念が一つも彼の頭に入って来ないからである。(中略)個人の責任という観念は、HOW TO LIVEと考えなければ生れて来る筈がないからである」と論難した。これに対し不条理という概念をめぐり「氏(広津和郎)は(中略)なんの気なしにしたことが思いがけない結果を生んでしまったというようなことがまったくないほど幸福な人なのでしょうか」と応じた。「歳はとりたくないものです」とシンラツな揶揄で締め、論争の火勢はさらに広がったのを覚えている。しかし、晩年を「正義」の無謬性に賭け松川事件に没頭した文豪と「自由」の無原則性を留保しなければならない人間という厄介な生き物の深奥をみつめた文芸評論家の両極の問題意識は今なお生きている。
「太陽が眩しい」からと引き金を引いたムルソーと「だれでもよかった」と呟いた秋葉原通り魔殺人事件に同義性を求める。それが誤読だと承知した上で、ネット社会の仮想人格を組み込むポジ・ネガ共存の現代社会に形を変えたムルソーの悲鳴が聞こえてくると思えてならない。いわばネット社会に生まれた「ピエ・ノワール」(黒い足)たち。
 ムルソーの影でもあるカミュは「ピエ・ノワール」という入植者出身である。母国からは差別され、共存を願うアルジェリアでは異宗教のしばりで孤立する。この分かりにくい人間模様にわれわれは無縁だろうか。何百万人と置き去りにされた虚構の国満州帝国から辛うじて帰国した日本の「ピエ・ノワール」たちはわずかに「アカシヤの大連」(清岡卓行)を持ち合わせているにすぎない。大連という異国の都市にせめて叙情の領域から鬱屈した若者の心情を解放するしかなかった。
「映画を観てカミュを散歩する」、一見軽い文脈に秘められた“不在の正義”をめぐる柔軟な知的思考の旅が「カミュなんて知らない」世代を含め、あらためて問われる深刻な時代にわれわれは向き合っていること、背景に一連の戦後レジーム観で価値観の相対化が無神経に図られ、進行しているこの国の現実を暗示した機知に満ちた書でもある。

 (まつお・よういち 放送評論家)

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