書評

2014年8月号掲載

地震学者とはどんな人たちか

――黒沢大陸『「地震予知」の幻想 地震学者たちが語る反省と限界』

黒沢大陸

対象書籍名:『「地震予知」の幻想 地震学者たちが語る反省と限界』
対象著者:黒沢大陸
対象書籍ISBN:978-4-10-336091-9

 インド洋大津波で壊滅的大被害を受けたインドネシアのバンダアチェ。発生から3週間ほどした2005年1月、現地を訪れた。土台だけが残った海岸近くの住宅跡で、じっと海を見つめていた老婆がいた。当時の話を聞かせてもらい、最後に日本に望むことを尋ねた。老婆は「津波が起きないようにしてほしい」と答えた。しかし、津波、すなわち地震を止めることは人間の力ではできない。
 この話を日本ですると、みんな苦笑する。しかし、科学技術に対する期待と現実がかみあわないのは、日本も同じだ。地震の研究や予知に対する期待と、地震学者たちが及んでいない学問水準のように。
 東日本大震災は、現在の地震学の限界を見せつけた。
 3・11以前、地震学者たちは「マグニチュード9」という巨大地震が日本で起きると予測していなかった。東北地方に大きな津波があった貞観地震のことは、知られ始めていたが、防災に生かすまでに至っていなかった。地震の備えには、将来予測される地震の規模の想定が必要になる。だから、大津波への備え不足は、地震学者たちの予測が甘かったことも背景にある。いまだ先行きが見通せない福島第一原発事故や関連した問題が注視されるが、原発事故がなければ地震学者たちは、もっと社会から非難されただろう。
 この「地震学者」とくくられる研究者たちも、様々な専門分野や立場がある。そんな彼らの姿を朝日新聞夕刊1面の連載『ニッポン人脈記』で2012年10月からとりあげた。
 本書はこの連載を発展させ、地震を研究する学者はどのような人々か、研究をとりまく環境の変化、防災政策の背景などを整理しつつ、現在の政策にも関連する地震研究の歴史、地震学者たちが何をしようとしてきたのかを読み解いた。
 地震が起きると、学者たちは、すぐに発生の仕組みを説明し、被害が大きくなった原因を解説する。すると、「これだけのことがたちどころにわかる地震学は、ずいぶんと進んだ学問だ」と感じてしまう。だが、今の学問水準では、起きた現象は説明できても、将来の予測はあやふやなのだ。
 地震学は、物理や化学のような不変で明確な法則の理論体系が完成していない発展途上の学問であり、予測が困難な自然が相手という限界もある。一方で、地震が被害を及ぼすため、社会への貢献が求められる。他の分野に比べて巨額というわけでもない予算も、地震後に増えれば「焼け太り」、予測が外れれば「無駄遣い」の批判が絶えない。科学として静かに地震の研究にいそしみにくい気の毒な面もある。ただ、「予知につながる」「防災に役立つ」と予算を獲得してきた経緯も見過ごせない。「社会に貢献できる」とした主張は、社会が不十分だと考えたときに、そのまま批判につながる。
 地震学や防災行政を取り巻く状況、地震学者たちが何を思い、どのような研究をしているのかを伝えることは、地震学を過大にも過小にも評価せず、その限界を踏まえて、社会が防災対策を考える助けになるだろう。
 2014年5月、福井地裁が関西電力大飯原発の運転差し止めを認める判決を出した。判決文には、将来起きると予測される自然現象に対する予測の限界を示した上で「地震という自然の前における人間の能力の限界を示すものというしかない」と指摘した。東日本大震災の大きな教訓と言っていい。
 しかし、再稼働をめぐり九州電力川内原発で問題化した火山対策では、繰り返されてきた巨大噴火について、我々はわずかな知識しかもたないのに、発生の予測や対処も可能だと九電が主張、原子力規制委員会も大筋で認めている。
 災害対策は、自然が相手だから、「わからない」は必ず残り、対策に万全はあり得ない。リスクを示した上で、社会が許容するかを問わなければならない。でなければ「安全神話」は繰り返される。
 3・11から時間が経つにつれ、研究者や防災行政に携わる人々は「総反省」状態から立ち直り、震災直後とは違う考えをしている。震災前後の自分たちの振る舞いのつじつまが合うように主張が修正され、それぞれの「史観」が作り出されていく。よく言えば、前向きになるための理屈づけ、悪く言えば自分や組織の誇りや立場を守ろうとしている。もっとも、そう見えるのも、私の「史観」なのかも知れない。
 それだけ、地震や災害をとりまく背景には人間的な要素が含まれている。本書が、地震や災害の報道の背景に何があるのか、隠されている思惑は何かを見極める手がかりの一つになれば幸いである。

 (くろさわ・たいりく 朝日新聞編集委員)

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