書評
2014年9月号掲載
ヤワな観念論をぶっ飛ばす震災後文学
――木村友祐『聖地Cs』
対象書籍名:『聖地Cs』
対象著者:木村友祐
対象書籍ISBN:978-4-10-336131-2
被災地に「わたし」はボランティアとしてやってきた。三三歳、東京都中野区在住、夫あり。一年前に会社は辞めた。レンタカーで向かった先は「希望の砦」という名の牧場。三六〇頭の牛が飼われている。育っても出荷されることのない牛である。なぜってそこは、福島第一原発から一四キロの場所にある立ち入り禁止区域だから!
「Cs」とはいうまでもなく、セシウムの元素記号。木村友祐『聖地Cs』は私たちのヤワな観念論をものの見事にぶっ飛ばす、強烈かつ繊細な震災後文学だ。
何がどう強烈かって、着くや否やこれですから。
〈何気なくぬかるみに踏み入りましたが、途端にウッと歯を食いしばってしまいました。なぜならそのぬかるみは、一見泥のように見えますが、どうやら牛が垂れ流した糞尿の堆積物のようなのです。泥のような糞。つまり「糞泥」〉
こんなのは、でも、ほんの序の口。
膨大な量の糞の掃除を手伝い、牛たちの食欲に圧倒されながら餌をやり、くたくたになった彼女は思い知るのだ。〈わたしは「希望の砦」のことを、どこかで理想郷のように思っていたようです〉。でも、実際は〈矛盾が矛盾のまま、ごろりと放りだされた場所でした〉。牛たちを生かすには放射性物質で汚染された牧草も与えなければならない矛盾。測定器の電源を入れれば〈ピピッ。ピッ。ピッピッ。……ピッ。ピッピピッ〉と音が鳴り続ける現実。
事故の後、原発二〇キロ圏内に多くの動物たちが取り残されたことは、なんとなく知っていた。が、その現実を目の前に突きつけられると、やはり打ちのめされる。生きようとする牛の背後には、殺処分にされた牛、餓死した牛が何千頭と存在する。無茶とわかっていても〈おれはやめるわけにいかないんだ〉と語る牧場主の「仙道さん」。〈なかったことには絶対しない。この牧場は、国と、あそこの発電所の、喉元に刺さったトゲなんだよ〉。
原発事故に取材した小説は、この三年半でかなりの数にのぼる。「震災後文学」を〈言論統制のような圧力に抗って書かれたものであり、震災という出来事を追い詰め、考え抜こうとした作品〉と木村朗子『震災後文学論』は定義している。ただ、思い返してみると、優れた震災後文学の多くは幻想譚だった。川上弘美『神様2011』に登場する「くま」は擬人化された熊だし、いとうせいこう『想像ラジオ』の主人公は言葉を持った死者である。
同じ震災文学でも「聖地Cs」は正反対の道を行く。ここでの「生」は餌と糞だし、「死」とは死骸だ。それが生と死のリアリズムなのさ、ほかに何がある? といわんばかりの、バリバリ唯物的な震災後文学。
とはいえ、深刻で残酷な現実を木村友祐はフィクションの力で突き抜けてしまった。社会から見捨てられた牛と、夫のDVに耐えてきた「わたし」。
〈わたしは、彼女がかつて助けようとした、仲間の溶けたからだと蛆まみれの糞尿にうずもれ、もはやもうろうとして死を待つばかりの牛になっていたのです〉
いけ好かない女(脱原発と動物愛護を標榜する女性タレント議員)に彼女が一種の「自爆テロ」を仕掛けるにいたり、読者は胸のすく思いを味わうだろう。そしてラストに用意されたもっと大規模なテロ。そうだよね、牛だって怒っていいんだよ。糞も死骸も武器なんだよ。
「希望の砦」のモデルとなった牧場は福島県浪江町に実在し、すでに本や映画にもなっている。だが、本書が抽出するのは「小説でなければ描けない現実」だ。同時収録の「猫の香箱を死守する党」には、飼い猫や野良猫にまじって浪江町に置き去りにされた猫の話が登場する。猫も牛も人間も、尊厳をもって扱われなければ尊厳を失う。けれど反撃のチャンスはある。あなたは小さな勇気を与えられるだろう。デビュー作『海猫ツリーハウス』以来、寡作ながら社会に不適合なダメ人間を描き、都市と地方の格差を描き、労働の現場を描き、動物の営みを描いてきた木村友祐の本領発揮である。
(さいとう・みなこ 文芸評論家)