書評

2014年10月号掲載

「少々イケズな書評ですが……。」

――京の町家 暮らしの意匠会議編『京都西陣 イケズで明るい交際術』

井上章一

対象書籍名:『京都西陣 イケズで明るい交際術』
対象著者:京の町家 暮らしの意匠会議編
対象書籍ISBN:978-4-10-336551-8

 私は京都に古くからつたわるしきたりを、おおむね好まない。この本を読んで、その想いをあらたにした。ここまで世間を気にしながら、くらしていかなければならないのは、たまらない。かんにんしてくれ、と。
 京都はいやだと言って、ほかの街へうつった知人も、けっこういる。洛外そだちの私にはピンとこなかったが、彼らの屈託も、これを読めばよくわかる。こういう街にはとどまりたくないだろうなと、つくづくそう思う。
 たとえば、私はいわゆる「つろく」ととのえられたしつらいに、わずらわしさを感じる。床の掛軸や花、そしてだされる器などが調和しあっている室内に、私はたえられない。不調法な自分がその場をけがしていると、まず思ってしまう。私などがいてはいけない空間だと、気持ちがちぢこまる。すぐにでも、にげだしたくなってくる。
 お茶や舞などできたえられた見事な立居振舞の人も、にが手である。そういう修行のできていない自分を、ゴミのように感じてしまう。なるべく近づいてほしくないし、私からも、あゆみよらないよう気をつけている。
 京都でくりひろげられてきたおりめただしいくらしのありようを、読み手につたえる。これは、とりあえずそういう本なのだと思う。そして、私のような京都近郊でそだった者は、くわばらくわばらと遠ざけたくなる。しかし、他地方でくらす人々には、けっこうおもしろがられるかもしれない。私が重苦しく感じるところを、エキゾティックにうけとめそうな気もする。
 この本は、語り手が洛中在住の女性で、かためられている。西陣や室町あたりにすむ、やや年輩の女たちがもちよった話で、まとめられた。
 これを、京都の男たちが口にすれば、読者もおしつけがましさを感じたかもしれない。しかし、女の人が語ることで、読み物としてはうけいれやすくなっている。京女の語り口が、エキゾティシズムを高めている。出版の企画としては、かしこいやり方だなと思う。
 本のなかで、ひとりの女性がこう言っている。東京あたりで道にまようと、京都弁で行先をまわりの人におしえてもらうことがある。「京ことば丸出しで道を尋ねますと、駅員さんをはじめ皆さん、それは丁寧に道案内をしてくれはるのです。京都に生まれて良かった……」、と。
 私も東京へゆき、京都弁で道をたずねることはある。しかし、おっさんの私が、それで「丁寧に道案内をして」もらえることは、あまりない。京都風のしゃべり方が、聞き手を魅了するのは、圧倒的に女のほうである。
 こういう、やや説教臭いところもある読み物は、男どもに語らせるべきじゃあない。女の人たちがしゃべってこそ、値打ちもでてくるのだと、かみしめる。
 はやく家からでていってほしい人に、「ぶぶづけでもどうです」と、京都人はしばしば言う。表面はていねいにつくろっていても、裏ではまったくちがうことを考えている。京都人は腹が黒いという例証に、よくこの「ぶぶづけ」という慣用句はもちだされる。
 この本へよりそった京女たちは、しかし、それを否定する。「わたしらの周りにはどなたも、そんなことをした人もされた人もおりません」。そんな人がいるとすれば、それは「京都の人やないでしょう」、と。
 しかし、私が子供のころに、「ぶぶづけ」で退出をほのめかすおばあさんはいた。昔は、あの言いまわしが、京のくらしに息づいていたはずである。聞いたことがあるという京都在住の人は、私以外にもおおぜいいる。
 この本につどった語り手たちは、あえてにぎりつぶしたのか。室町や西陣にはなかったので、それを口にするのは「京都の人やない」と、されたのか。いろいろ考えさせられた。

 (いのうえ・しょういち 建築史家)

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