書評

2014年11月号掲載

『みなそこ』刊行記念特集

生者と死者の帰郷の物語

――中脇初枝『みなそこ』

重松清

対象書籍名:『みなそこ』
対象著者:中脇初枝
対象書籍ISBN:978-4-10-126042-6

 帰郷の物語である。四国・高知県の、おそらくは四万十川流域の山あい、沈下橋を渡ってたどり着く「ひかげ」と呼ばれる小さな集落が、本作の主人公「あたし」のふるさとである。「あたし」は学校が夏休みになった小学四年生の一人娘を連れて、一年ぶりにふるさとに帰ってきたのだ。
 まずは、「ひかげ」を描く中脇初枝さんの筆力に、圧倒された。春夏秋冬、いつの季節が舞台だったとしても、「ひかげ」の情景はすばらしく印象的に描き出されるはずだ。
 しかし、あえて言い切ろう。本作は、夏の物語でなければならない。なぜなら、夏こそが帰郷の季節、ふるさとのわが家に帰ってくる季節なのだから――生者も、死者も。
 帰郷とは、ふるさとの言葉との再会でもある。
 方言がたくさん出てくる。意識的に、ひらがなを多用して綴られる。漢字ではないのだ。表意よりも、むしろ表音、表徴。四国・高知の方言についてまったく不勉強な、僕のような読み手にも、ひらがなの字面や響きの、呪術的ですらある粘度と湿度は、文字どおりねっとりと伝わってくる。
「あたし」は、ひらがなに満ちた「ひかげ」で一人の少年と再会する。離婚をして「ひかげ」に帰ってきた幼なじみの息子である。十三歳の「りょう」は、去年の夏よりもずっとおとなびて、「あたし」の心をかき乱す存在になっていた。
 物語の縦糸は、そんな「あたし」と「りょう」の禁断の関係にある。だが、そこにふるさとの土地に刻まれた歴史がからむことで、糸は複雑に撚られ、色合いを深めていく。
 物語は、さまざまな民俗学的な意匠によって彩られる。のつご、おながれさん、雨だれ落ち、お施餓鬼、りゅうきゅう、えんこう、しんもうばた、へんどさん……そして、お盆。
〈いつも川には死んだ人がいた。お盆の間だけ、川へ迎えに行って、死んだ人を家に連れてもどってくる。お盆の間は家に死んだ人がいる。/けれども、迎えに来てもらえない死んだ人は、お盆の間、川から上がってきて、そのへんをうろうろしている〉
 夏が死者の帰郷の季節だというのは、そういう意味なのだ。だが、本作は決して幽霊譚などではない。では、どうやって死者は帰郷するのか――生者によって思いだされ、物語られることによって、である。ならば、「ひかげ」で語り継がれてきた物の怪や言い伝えの数々は、ふるさとの死者の記憶、忘れてはならない記憶の変奏ではないか。
 そう気づいた瞬間、本作の凄みはさらに増す。あまりにも淫らで哀しい「あたし」の物語も、いずれふるさとの記憶に溶け込んでしまう。「あたし」の母、祖母……「ひかげ」の女たちの物語はずっとそうして、始まりも終わりもなく流れつづける川の底でたゆたっているのだろう。
 本作は、そんなふるさとの土地に刻まれた記憶と、娘であり母であり妻であり女でもある「あたし」との、ひと夏の交歓の物語――そして、さらにもう一つ。
 本作でとりわけ印象的なひらがなの言葉「みてる」(漢字では「満てる」「充てる」か)は、中脇さんが十七歳で坊っちゃん文学賞を受賞したデビュー作『魚のように』のキーワードでもある。〈僕の育った土地の方言では死ぬことを“みてる”という。(略)その言葉には、天寿を全うした、人生を充分に味わい尽くした人達の満足さが感じられた。器に注がれた水が溢れる程満ちる時、彼らは死んで――みてて――いった〉(『魚のように』より)。この言葉と、この主題には、歳月の元手がしっかりとかかっているわけだ。
 川は(そして水は)死の世界。そこに沈むことを前提につくられた沈下橋を通って帰る「ひかげ」というふるさとは、なんと怖く、なんと物語のこんこんと湧き出る土地なのだろう。春、秋、冬の「ひかげ」の物語が、もしもまた生まれるのなら(ぜひとも!)、どんな土地の記憶が語られるのか。デビュー作への帰郷を果たした作家の次なる旅を、ワガママな読み手は、早くも瞠目しつつ待っている。

 (しげまつ・きよし 作家)

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