書評

2014年11月号掲載

教科書時代の私たち

――石原千秋監修・新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』(新潮文庫)

石原千秋

対象書籍名:『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』(新潮文庫)
対象著者:石原千秋監修/新潮文庫編集部編
対象書籍ISBN:978-4-10-127451-5

 あれはいったいどういう感覚だったろうか。
 学校の国語の時間は、多くの場合、朗読からはじまる。教師になってみればわかることだが、生徒に朗読させればその教材の理解度は一発でわかる。小学校二年生の時だ。僕にはなかなか朗読の番が回ってこなかった。どうやら先生は集中力を欠いている級友を指名している。そこで一計を案じて、よそ見をすることにした。実はよそ見をするふりをして、隣の級友の教科書をそっと見ていたのである。うまい具合に当ててもらえた。もちろん、すぐにすらすら読みはじめた。先生は一瞬「あれっ?」という顔をした。「してやったり」という嬉しさも含めて妙に鮮明に覚えている。新聞を読んでニュースさえ見ていれば学校で習うことなどなかったから、六年間も通ってほんとうに時間を無駄にしたといまでも思っている。学校嫌いで教科書は好きな小学生時代の、ほんのささやかなエピソードだ。
 そんな僕だから、小さい頃から群読が嫌いだった。「みんなで声を合わせて読む」感覚が生理的に受けいれられなかった。「みんなで声を出して練習する」から、運動部も嫌いだった。そもそも「みんなで同じことをする」のが嫌いだった。それなのに「みんなで同じことを学ぶ」教科書がどうして好きだったのか、いまでもよくわからないところがある。それは教科書と向き合っている限りは、五〇人(その頃は一クラスは五〇人がふつうだった)の人間の中でも一人でいられたからかもしれない。
 少し前に読者論・読書論を書いたときに、「内面の共同体」というやや生煮えのタームを提案した。本を読むときの「みんな同じものを読んでいるが、自分だけはちがう読み方をしているかもしれない」という感覚を「内面の共同体」と呼んでみたのだ。批評家のジョージ・スタイナーは、黙読が与える「孤独」を近代のものとみなしていて、僕が言う「内面の共同体」が持つ現代的で両義的な感覚を音楽に見出している(桂田重利訳『青鬚の城にて』みすず書房、一九七三・一)。教室の読書は、近代的であり現代的でもある。そういえば、僕がもっとも「孤独」になれて、同時に「みんなと同じで、みんなとはちがう」と感じたのは群読を強いられたときだったかもしれない。そんなときに、金子みすゞの「みんなちがつて、みんないい。」というフレイズが教科書に載っていたら、僕はずいぶん救われただろう。教科書こそは「みんなと同じで、みんなとはちがう」自分という不思議な存在を実感させる不思議なメディアだったのだ。
 教科書はまた、感性を刷り込む装置でもある。有名な和歌「三夕の歌」を覚えて以来、僕にとって秋の夕暮れはもっとも美しい時間になった。これはまるで絵葉書で見たようにしか観光地を見られなくなった近代人そのもののようにも思える。夏目漱石『こころ』の「先生」のようにしか自分を疑うことができず、太宰治『人間失格』の大庭葉蔵のようにしか自分を嫌悪することができなくなった青年期を、教科書時代(!)と呼び変えてもいいではないか。教科書時代こそが、「内面の共同体」をもっとも鮮やかに感じられるはずだからだ。
 教科書時代の僕たちは、同じクラスの五〇人のみんなの中で、必死に自分だけの位置を探し続けていた。秋の夕暮れが美しいのは、それが人を「孤独」にするからではなかったか。国民作家夏目漱石は「孤独」を書き続けたが、「孤独」を書かなかった近代文学はあっただろうか。中島敦『山月記』が「自尊心」と「孤独」をもてあましている高校生の心に響くように、すぐれた国語教材はどこかで「孤独」に触れている。そもそも教室こそが人をもっとも「孤独」にする空間だろう。言うまでもなく、「ちがう」は「同じ」からしか生まれないからである。「孤独」を生む「みんなとちがう」感覚は、「みんなと同じ」感覚がなければ成り立たない。そんな教科書時代を体験して、僕たちは大人になったのだ。
 こんど、新潮文庫の「新潮ことばの扉」シリーズのお手伝いをすることになった。三ヶ月ごとに教科書で出会った「ことば」をジャンル別に刊行する予定である。教科書で出会った「ことば」を読みなおして、「みんなと同じで、みんなとはちがう」と格闘していたあのころの感覚が甦るだろうか。「二十億光年の孤独」(谷川俊太郎)が、なぜか「わかった」あのころの青くて赤い感覚が。

 (いしはら・ちあき 早稲田大学教授)

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