書評・エッセイ

2014年11月号掲載

医師としての節目に

――新見正則『死ぬならボケずにガンがいい』

新見正則

対象書籍名:『死ぬならボケずにガンがいい』
対象著者:新見正則
対象書籍ISBN:978-4-10-120941-8

 九十五歳になった母は、今日もなんとか昼ご飯を完食した。昼ご飯と言ってもとろみがついた流動食だ。家内がスプーンで口に持って行くと、機嫌が良ければ大きく口を開けて食べるし、機嫌が悪ければ、小さな口しか開けない。もしかしたら食事が美味しくないのかもしれない。でも会話ができないので、そんなことも僕たちには実はわからない。こんな状態が八ヶ月続いている。食物を嚥下するときの音、つまり「ごっくん」の音で体調がわかる。体調が悪いと、食事は口の中に留まり、なかなか嚥下ができない。調子が良いと、大きな「ごっくん」が介助している者の耳に入る。
 去年の今頃は、なんとか歩けた。そして、もちろん自分で食事が出来た。それが、大腿骨の骨折をしてから歩けなくなり、その後、脳梗塞でも起こしたのだろうか、両手が動かなくなった。そして、意思の疎通もほとんどできない。まったく生産性のない存在だ。でも愛しい。この人がいなければ、僕は生まれてこなかった。娘の存在もないはずだ。一年前までは、よく僕の娘と、つまり孫と遊んでくれた。品のある優しいおばあちゃんだった。
 いまでも、娘はそんな想い出を懐かしんでいる。おばあちゃんと再びお話ができるようになることを願っている。そんな十歳の娘も、実は、そろそろ母にお迎えがくるのではと思っているのだろう。最近は家族で母の介護をしているので、遠出はしなくなった。夏休みもどこにも行かなかった。でも娘は不満を言ったことはない。こんな介護の毎日も良い想い出になることを両親としては願っている。
 お盆に母と僕の私物を整理してみた。その中に、僕が十八歳になったときに贈ってくれた写経があった。それは医師になろうと決意していた僕に母が筆で書いてくれた般若心経だった。どれだけの思いを寄せて写経してくれたのだろう。その般若心経の存在を忘れていた。本当に陰から僕の人生を応援してくれていたのだ。今となって、やっとそんな母の偉大な存在に気が付く。
 最近、人は何で生きているのだろうと自問している。医師としての経験も三十年近くになり、外科医として病だけを診ていた昔からは少々脱皮した自分がいる。五十半ばを過ぎ、患者さんを人として、そして患者さんの人生を診る診療が幾ばくか出来るようになった。何人もの患者さんが、先生から生きる勇気を貰ったと言ってくれるようになった。今回上梓する本は、母の介護と多くの患者さんから気づかされた僕なりの知恵を書いたものだ。医療とは何か、生きている幸せとは何かを自問しながらの執筆だった。本書を書いたことは、医師としての節目になるかもしれない。
 僕が特別なことをしている訳ではない。ただ、「人は皆、すべて死ぬ。」ということが自分自身に腑に落ちたのだ。そんな人生の意味に疑問を持っているときに、般若心経に出逢った。そこには、「色即是空、空即是色」とあった。まさしくそれは、形あるものは滅び、そして無からまた生まれるということを語っている。
 母の般若心経に「色即是空、空即是色」の文字を見たときには涙が自然と溢れた。生きることの意味にやっと興味を持った自分、そして般若心経などにやっと惹かれ始めた自分。そんな自分に三十年以上の時を経て、母直筆の般若心経が降ってきた。母はたくさんの苦労を背負って、僕を育ててくれた。いくら感謝しても足りない。その母は無に向かっている。そして、また無からいろいろな物が生まれるのだろう。
 ニュートン力学では無からは何も生まれない。「空即是色」は荒唐無稽に思える。ところが、量子力学に少し興味を持つと、実は無から物質が生まれると言う。そうでなければ、宇宙は生まれないそうだ。生まれてから一三八億年と言われる宇宙を、その星空を娘と眺めていると、ちっぽけな僕たちの存在がはかなく思える。でもそんなはかない世界でも、ご縁のあった人たちと、精一杯生きたい。そして、生き抜きたい。そんなことを母は身をもって教えてくれている。早晩、「お疲れ様、先に逝って待っててね。」と母に言う時がくるのだろう。

 (にいみ・まさのり 帝京大学医学部外科准教授)

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