書評・エッセイ

2014年12月号掲載

『夜の木の下で』刊行記念特集

珠玉の短編集というほかはない

――湯本香樹実『夜の木の下で』

野崎歓

対象書籍名:『夜の木の下で』
対象著者:湯本香樹実
対象書籍ISBN:978-4-10-336711-6

 なんと響きのうつくしい、気持ちのいい文章だろうか。安心して身をゆだねていると、やがて痛切な思いがおそってきた。優しい作品の言葉が、読む側の心の深い部分にまでしみとおってくる。一瞬、ひやりとし、あわててしまう。しかしそれこそは、読書の純粋なよろこびの瞬間を告げる感覚ではないか。
 ここに収められた六つの短編を読み進めながら、そうした感覚がとぎれることなく、たえず新たになっていくことに驚かされた。珠玉の短編集というほかはない。読後、その魅力を反芻すると、少年少女の姿が、いきいきと、そしてどこかメランコリックに浮かび上がってくる。
 そこには幼いふたごの兄弟がいるし、背がひょろひょろ伸びはじめた時期の男子中学生が、「ヤギ顔」の中年女性と一緒に、口笛をふく練習をしたりしている。さらには、自転車の「サドル」と女子高校生などという、なんとも不思議な“カップル”が語りあう姿もある。
 そうした二人――何しろ「サドル」まで含まれるので、二人とも呼びにくいのだが――が体験する、なごやかな、親しみにあふれるひとときを描き出すこと。そこにこの作品集のひとつの眼目がある。例外的な親密さに浸された人生のひとこまが、くっきりと浮かび上がるのだ。
 その親密さは、あまりにはかなく、一瞬のうちに跡形もなく消えうせてしまう宿命を帯びている。しかもそれは、おのおのの人物たちの心の奥底にしっかりと刻まれて、はるか後年になってもなお、よみがえりつづけることになる。
 つまり、一方には兄弟や友人同士、男と女、その他のあいだに共有される、ささやかとはいえ忘れがたい出来事があり、他方には、その出来事がどんなに貴重なものだったかを思い知らせる時の経過がある。そのいずれもが、短編の限られた枠内であざやかに描き出されているのだから、舌を巻いてしまう。
 そうかと思えば、事件勃発直後のなまなましい息づかいで語られる「リターン・マッチ」という短編もある。これは中学校でのいじめの問題を正面から扱った、すでに傑作として折り紙つきの一作だ。
 長い時間を経ての感慨のにじむ作品としては、とりわけ「焼却炉」がじつに素晴らしいと思った。女子高の生徒が毎週、決まった相手と焼却炉にごみを捨てにいく当番をつとめる。それだけの設定から作者は、汲みつくせないほど豊かなエモーションを引き出している。
 もちろん、どの短編が一番かなどと無理に決める必要は毛頭ない。読者によってそれぞれ、最愛の作品も異なることだろう。きっとその選択は、読者自身の人生とどこかで深く結びついた選択なのかもしれない。
 そういえば、二人組のリストに“会社員と猫”というのも加えておきたい。巻末を飾る表題作には、仕事から帰って、夜の公園のベンチでひとり缶酎ハイを飲む二十八歳の男が登場する。片目の茶トラ猫がふらりとやってきて、しばしお相手をつとめる。都会のまんなかの夜の公園だなんて侘しいだけかと思いきや、そう捨てたものでもないのだ。しかもその会社員は、そこに生えているクスノキの花の匂いにまで敏感である。「クスノキは夜に強く香る」。それは「生命力旺盛な匂い」なのだという。
 そんなふうに、植物までもがひそかにドラマにかかわってくる点も本書の大きな魅力である。この決して分厚くはない本のうちには、豊かな、いとおしい時間と空間が広がっているのだ。

 (のざき・かん フランス文学者)

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