書評・エッセイ

2014年12月号掲載

『夜の木の下で』刊行記念特集

魂の響きあいとしての対話

――湯本香樹実『夜の木の下で』

東直子

対象書籍名:『夜の木の下で』
対象著者:湯本香樹実
対象書籍ISBN:978-4-10-336711-6

 六つの短編は、いずれも一人称による過去回想の形を取っている。過去回想といっても単純な郷愁ではなく、現在から過去を回想することによって初めて気付く、悪意や苦さなども含めた複雑な心情の発見が綴られている。主人公たちが記憶の底から掬い上げてくるのは、身体の弱い弟や、クラスのいじめられっ子、行き場のない独身の中年女、そして野良猫など、繊細ではかなく、そして純粋な魂を持っている者たちである。彼らは、その弱さゆえの引力がある。各短編の主人公は、彼らより少しだけタフだが、その純粋さを感知できる繊細さを持つゆえのもろさも抱えている。
 一時的にとても親密な時間を過ごす彼らには、その時間にやがて終わりが来ることがあらかじめ分かっているような切なさが滲む。そんな関係性によって編まれる人生の物語の中で、過ぎてしまった時間、取り戻すことのできない時間の輝きが胸に迫ってくる。その輝きが、誰からも忘れ去られた、暗い場所で主に発せられる点が興味深かった。
 例えば「緑の洞窟」という短編での、庭の二本の木が作る土の洞窟。幼い「私」は、ずっと自分だけの大切な秘密の場所だった洞窟を、あることがきっかけで双子の弟に教え、共有する。《双子といってもヒロオは体格も体力も私に数段遅れをとっている》というその弟は、庭の木が作る緑の洞窟を海底のようだと表現する。
 その後大人になった「私」は、「緑の洞窟」とはなんだったのかを考えるのである。
《今も私のなかにはあの緑の洞窟があって、しようと思えばいつでも、心地よく湿った暗がりからこの世界の不思議さに目を見張ることができる。(中略)あのアオキの木の下で起こったことは、たぶんほんの小さな子供にだけ与えられる心やさしい慰めであって、それ以上の何でもないのだ。》
 弱くて小さい双子の弟を、自分も含めた周囲がかばわなければならない状況の中で、「私」は実は深く傷ついていた。もちろん弟の方にも葛藤があったことだろう。共有する「心やさしい慰め」であるその場所は、生まれる前の場所のようでもあり、死後の場所のようでもある。「それ以上の何でもない」という言葉が象徴する通り、そこで何か特別なことが起こるわけではない。日常の延長線にあるささやかな逸脱として描かれる冷静な筆致が、かえって滋味深く心に沁みる。
 女子校での日々が瑞々しく描かれている「焼却炉」では、学校の焼却炉が「慰めの場所」となる。週に一度、生理用品入れのなかみを入れた段ボールを、敷地内の片隅にある焼却炉へ捨てにいく、というみんなが嫌がる仕事を、「私」と「カナちゃん」がいつの間にか常に引き受けている。生々しいゴミが燃える焼却炉の前で、二人は様々な会話を交わす。高校三年生なので当然進路の話などもするのだが、思うようには行かない未来への諦念や絶望が、彼女たちの対話から見えてくる。
《苺の果汁のような、林檎ジャムのような、黒すぐりのような、いろんな血》が燃えていく様をカナちゃんが《ほとんど顔を突っこみそうになって》覗き込み《「燃えろ燃えろ」/さもおもしろそうに言った》。「フフ」という含み笑いが特長のカナちゃんの心の奥に溜まっている澱を痛感する。学校の片隅で、少女たちの経血を燃やす少女らの胸の裡にある無意識の悪意が官能的に伝わり、ぞくぞくした。
 かけがえのない時間の輝きは、かけがえのない相手との対話がもたらす。少し淋しい、抒情的な風景の中で交わす対話の相手は、ときにサドルなど人間ではないこともあるが、この小説世界では、実に自然なこととして溶け込んでいる。どのような姿をしている者とも、魂の響きあいとしての対話がなされているからだろう。

 (ひがし・なおこ 歌人)

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