書評・エッセイ

2014年12月号掲載

ある母親の記憶

――コルム・トビーン『マリアが語り遺したこと』(新潮クレスト・ブックス)

横山貞子

対象書籍名:『マリアが語り遺したこと』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:コルム・トビーン著/栩木伸明訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590113-4

「アヴェ・マリア」として知られる聖母マリアへの祈りには、「神の母、聖マリア」という呼びかけがある。絵画や彫刻に見る聖母マリアも、神の母としてあがめられるにふさわしい姿で表現される。だが、この作品で読者が出会うのは、そういう女性像とはちがうものだ。
 イエスの刑死後まもなく、マリアは息子の弟子に連れられてユダヤを離れ、小アジアの地中海岸にあるエフェソで晩年を送った、という説がある。この作品の時点では、福音書はまだ書かれていない。弟子は、イエスについて母親から取材したい。だが、この貴重な情報源は、取材する側の望む方向とはちがうことを語りつづける。
 福音書には記されていないマリアの証言が、もしあったとすれば、それはどんなものか。この問いに、遠い後世の作家が形を与えた。そこでは、マリアの感じていた同時代のユダヤはこう描かれる。
「世の中はもうじきよくなっていきそうだという気運が、乾いた熱い風のように村々を吹き抜け、取り柄のある若者たちをさらっていくようになった。うちの息子もそのひとりだった。」
 息子のまわりには、次第に若者たちが集まるようになる。だが、マリアは、「若者たちのひたむきさにへきえきして、わたしは台所や菜園へ逃げた。」そして息子のほうはといえば、「雄々しさばかり見せつけて、ありあまる自信を燦然と輝かせている。」
 福音書には、イエスに弟たちがいたと書いてあるが、この作品では、マリアの産んだはじめての、ひとり息子という設定になっている。息子を家に閉じこめてでも、安全な暮らしに引き戻したいと願う母を描くには、このほうが強くなる。
 病人を癒やし、こころに重荷をもつ人を解放し、死人をよみがえらせるイエスの力を知って、その主張をきこうと、大勢の人たちが後に従うようになる。この人によって世の中が変わるかもしれない。そういう期待が高まってゆく。マリアのいとこのミリアムは言う。
「次に何が起こるのか誰も知らない。ローマ人にたいする蜂起の噂があるし、律法の教師たちにたいする暴動の噂もあるわ。……本当は反乱なんて起きないかもしれない。でも、わたしたちが知っていることすべてを――死だって例外じゃないの――ひっくり返す反乱が起きる可能性もあるのよ」
 ミリアムの言う、ひっくり返された死には実例がある。死んで四日めにイエスがよみがえらせたラザロのことだ。前からイエスと親しくしていた。彼の病気が悪くなったので、姉たちはイエスにきてほしいと使いをやった。だが、イエスが到着する四日前にラザロは亡くなり、墓に葬られた。それをきいたイエスは涙を流し、墓に行って呼びかける。死者は体に敷布を巻かれたまま、墓から出てくる。
 このラザロの姉マリアは、「今は世界の変わり目で、今こそが最後の日々であるとともにはじまりの日々でもあるのだ」と言う。なんのはじまりなのか? 「世界の新しい命のはじまり」と、ラザロの姉マリアは断言する。その変わり目に、イエスは十字架に掛けられて死ぬほか、道はない。だが、イエスを救い主とするこうした信仰に、母マリアは同調できない。
 イエスが十字架上で息を引き取る直前、母マリアはその場を立ち去る。自分もつかまって殺されるかもしれないという恐怖におびえて、逃げのびたかったのだと、率直に語る。だから、息子の亡骸をひざに嘆き悲しむおなじみの聖母像は、この作品では実際にあったこととしてではなく、母マリアの見た夢として現れる。
 マリアが晩年を送ったエフェソには、古代社会で最大という女神アルテミスの神殿があった。ギリシャ神話では処女神なのだが、小アジアでは地母神と習合した。胸にたくさんの乳房をもつ女神の像は、豊かな実りや家畜の多産をもたらす豊穣神として敬われた。イエスの母マリアは、この母なる女神に慰めを見いだすようになる。
 福音書を書こうとするイエスの弟子の示す方向に従わない女。この作品は、神の母、聖マリアとしてではなく、ひとりの人間の母、マリアという女性による、息子についての証言を差し出している。

 (よこやま・さだこ 英文学者)

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