書評

2015年1月号掲載

時間の酸をくぐって

――アリス・マンロー『善き女の愛』(新潮クレスト・ブックス)

加藤典洋

対象書籍名:『善き女の愛』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:アリス・マンロー著/小竹由美子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590114-1

 表題作は「善き女の愛」。「善き女」とはどういう人か。
 主人公のイーニドは思う。あの人を説得しよう。ボートに誘うのだ。そしてボートが十分に深いところまで来たら、私が泳げないことを断る。その上で、あの人に、あのことが本当なのかどうか尋ねる。そしてもし本当なら、私は口外しない、黙っているけれども、「あなたは言わなくちゃ」という。なぜなら、「そんな重荷を背負ってこの世で生きていくことはできない」、そんなことをしたら「自分の人生に耐えられなくなる」からだ。そしてもし、そこまでいっても、誰一人見ていないボートの上で、あの人が私の尋ねたことを否定せず、また私を川へ突き落とすこともしないのなら、私は賭けに勝ったことになる。さあ、このままボートを岸に漕ぎ戻せと、私はあの人にいうだろう。
 作品の終わり近く、この小説のこんなくだりに来て、読者である私はどきりとする。訳者小竹由美子さんも、そうだったのではないか。
 准看護婦のイーニドの想像は続く。二人は岸に上がる。彼女は別れの挨拶をする。その後、彼は庭を横切って家に戻る。翌日自宅で待っていると彼女に警察から電話が来る。そして彼女は刑務所まで彼に面会にいく。
「毎日、あるいは許可してもらえる限りの頻度で、刑務所で、座って彼と話をする。それに手紙も書く。もし彼がべつの刑務所へ移されたら、彼女もそこへ行く。たとえ面会は月に一度しか許されなくとも、近くにいるのだ」。
 読めばわかるように、ここにあるのはほとんどドストエフスキーの『罪と罰』の終盤、殺人者ラスコーリニコフをシベリヤの流刑地に行けと促す、元娼婦ソーニャの呟きそのものだからである。
 しかしこの小説は、そこまでを想像し、準備し、そして実際に岸辺の写真を撮りたいからという口実でボートで河のなかばまで連れていってほしいとイーニドが男に頼み、男が肯(うべな)い、二人が岸辺に降りる、するとボートが見えてくる。その場面で終わる。
 その先がどうなったか。その一端は、このときから「数十年」過ぎたこの町の博物館の様子を記す作品の冒頭に、印象深く、でもわずかに語られるだけである。
 これまで二〇一三年のノーベル賞受賞作家としか知らなかったアリス・マンローの作品を、はじめて読んだ。いま日本の文芸誌に載っている中短編の作品にもこういうものがあるのだろうかと思う。フラナリー・オコーナー、カーソン・マッカラーズ。また少し色あいが違うけれども、イサク・ディーネセン。そんな名前が思い出されるけれども、これら異才の女性の小説家たちとも違う、一種独特の感じがある。
 この人の小説を読むと、いま書かれている小説の多くが、肌のすべすべした、感じやすくて清新、かつ疑いを知らない、若い男女の物語であることがわかる。一方この人の世界では、時間が緩急自在に物語を動かし、誰もの肩の上に等しく歳月が降りつもる。本文の一行あきの後、世界が数十年過ぎていたりする。その間に、高速度撮影の空を過ぎる雲のように、子供は傷つき、若い人は年老い、仲のよかった夫婦は別れ、老人は死ぬ。
 ひそかな回復と希望が、語られないというのではなく、時間の酸をくぐり、ささくれだった手の甲の荒れた皮膚のうえに鉄のペンで記される。この小説の世界では「傷つく」こと「打ちのめされる」ことが大人になるための「道」である。
 印象的なのが、時間の使われ方、そして人の出てき方だ。
「ジャカルタ」には、夫コターの死に自分を支えきれず、実は夫は生きているのではないかと偏執的に考えるようになった女性ソンジェが出てくる。彼女はかつては輝くように聡明で魅力的な女性だった。当時赤ん坊を生もうとしていたキャスは一目見てこの人と友達になりたいと思う。この短編は、かつてキャスの面白みのない夫だったケントが、数十年をへて、その時赤ん坊だった娘のノエルよりもさらに年下の妻デボラと、北米大陸を自動車で移動しながら、最初の妻キャスとのつながりを求める気持ちで、ある日、オレゴンにソンジェの住む家を探して訪れる話だ。いまはいない夫のとりとめもない探索の話。ついで、若い人ならいいわ、消えてもたいした問題じゃない、とソンジェがいうと、ケントは返す。「逆だよ」。いま消えてよいのは「僕たち」のほうなのだ。
 ほかに「子供たちは渡さない」、「腐るほど金持ち」、「母の夢」など。表題作のほか七編を収めるが、すべての作品がそれぞれに面白い。

 (かとう・のりひろ 文芸評論家)

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