書評
2015年1月号掲載
『月光のスティグマ』刊行記念特集
ぼくらは誰もがスティグマを持っている
――中山七里『月光のスティグマ』
対象書籍名:『月光のスティグマ』
対象著者:中山七里
対象書籍ISBN:978-4-10-120961-6
先の展開がまったく読めない小説だ。中山七里の『月光のスティグマ』は、驚愕、驚愕、驚愕の連続である。
ぼくたちはふだん本を読むとき、それが小説であれ哲学書であれ、ある程度、先を見越しながら読んでいく。たとえば小説なら、作者が用意した設定を受け入れ、作者に導かれるようにして読んでいく。「この設定で、ここまでの展開からすると、次はこうなるだろう」と、漠然とした予測を立てている。初めての道を歩くときに、周囲の風景やこれまで来た道の様子から、先を予想するように。たとえどんなに曲がりくねった道であろうと、曲がりくねった道には曲がりくねった道なりの予想がつく。
ところが、そうした経験の積み重ねによる読みの技術が『月光のスティグマ』には通じない。次のページは予測できても、三十ページ後は予測がつかないのだ。読んでいて全く気の抜けない小説である。
小説はお医者さんごっこから始まる。いきなりだ。思わず「えっ、そういう小説なのか?」とつぶやいてしまう。
森の中で二人の少女を裸にして体の隅々まで観察する主人公である少年。これは主人公淳平のヰタ・セクスアリスなのだろうかと戸惑いつつ読み進むと、どうもそうではないらしいと分かってくる。一卵性双生児の姉妹、麻衣と優衣の違いを探すためにお医者さんごっこをしているというのである。だが相違点は見つからない。姉妹は完璧に同じなのだ。しかもとても美しい姉妹だ。外見は完璧に同じ。しかし淳平だけは麻衣と優衣の違いがわかる。二人のほんのわずかな性格の違いを、彼だけは感じ取ることができる。しかも淳平は二人にモテモテときている。
どういうことだ。これはちょっとエッチなラブコメなのか。そういう小説を中山七里が書くのか。中山七里は読者をどこへ連れていくのか。そういぶかしんでいると、森の中で事件が起きる。変態男が彼ら三人を襲うのだ。ガムテープで拘束されて自由を奪われる三人。淳平の目の前でカッターで傷つけられる麻衣と優衣。恐怖のあまり失禁する美少女たち。変態男は股間からイチモツをつまみだすと、「口を開けろ」と少女に命じる。哀れ、美少女の運命やいかに。しかし、間一髪というところで……。おいおい、こんどはこう来たか。
変態男の魔の手から逃れたかと思うと、次は双子の実家を不幸が襲う。号泣する双子の前で淳平は宣言する。
「俺が、護ったる」「もう、二人を誰からも傷つけさせない」
まだ小学生である淳平の、この決意と宣言が小説全体の伏線となる。
一九九五年一月十六日の夜、淳平はある事件を目撃する。なぜそのような事件が起きたのか、信じられないような事件だ。しかし翌、十七日未明。巨大地震が襲う。淳平と麻衣・優衣が住む神戸市は激しく揺れる。淳平が目撃した事件の痕跡も、巨大地震の被害のなかに埋もれてしまう。震災を生き延びた淳平は、あの事件について他人には決して口にできない疑問を抱きながら成長する。謎が解き明かされるのは、小説の最後の最後である。
うーん、ネタバレを避けつつこの小説を紹介するのは、これくらいが限界だ。ちょっと書きすぎたかもしれない。
タイトルにあるスティグマ(stigma)とは、英語で恥辱や汚名、そして負の烙印を意味する。ギリシア語の stizein(入れ墨をする)が語源だ。しかし、キリスト教では聖痕の意味もある。
『広辞苑』はもう少し詳しく解説する。
〈社会における多数者の側が、自分たちとは異なる特徴をもつ個人や集団に押しつける否定的な評価。身体・性別・人種に関わるものなど〉
森の中で変質者が麻衣と優衣につけた傷は負の烙印か、それとも聖痕なのか。
本書を読み終えた日、ぼくは神戸の街を歩いてみた。いくつかの慰霊碑をのぞき、あの震災を思い出させるものはほとんどない。人びとは幸福そうな表情で歩いている。しかし、ぼくらは誰もがスティグマを持っている。
(ながえ・あきら フリーライター)