書評
2015年1月号掲載
知の塊の衝撃
――周木律『アールダーの方舟』
対象書籍名:『アールダーの方舟』
対象著者:周木律
対象書籍ISBN:978-4-10-121561-7
“知の塊”とでも呼ぶべきもので頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。周木律の『アールダーの方舟』を読んでのことである。
九月二〇日の日曜日。森園アリスは、ノアの方舟調査隊の一員として、方舟が大洪水の後に漂着したという伝説の土地、トルコのアララト山を訪れていた。標高五〇〇〇メートルの山頂付近にあるという人工物らしき存在の正体を、ミラー博士の率いる八人の調査隊が調べるのである。
翌日、二一日は高山病防止のための高地順応に充てられていた。三〇〇〇メートルのベースキャンプから四二〇〇メートルまで一旦上った八人は、天候が悪化したため、ベースキャンプへの帰還を急いだ。その最中に事故が起きた。調査隊の一人が滑落死したのだ。
そんな事故があり、調査中止の声も上がったが、ミラー博士は継続を決断した。七人となった調査隊は翌日から活動を再開する。そして彼らは山頂付近のその場所に到達し、“それ”を見た……。
という具合に、山岳冒険小説を思わせる枠組みで物語は進んでいく。吹雪や雪崩などの危機が調査隊を襲うシーンも確かにある。しかしながら、全体としては、山岳冒険小説とは異なる味わいの一冊だ。何故なら、雪山での行動の描写に比べて、会話の割合が極端に高く、密度が濃いためだ。ともすれば、五〇〇〇メートルを超す高山を登っている途中であることを忘れさせるほどに、会話が印象的なのである。
その会話の大半を担っているのが、一石豊である。隊での役割は鑑定家であり、採取した資料の材質、時代、出自を調べる。だが、彼は、東大からカリフォルニア大を経てプリンストン高等研究所の数学教授になったという経歴が示すように、数学の専門家だった。しかも、考古学、歴史、建築、文化人類学にまで詳しい。そんな一石豊が、アララト山を登りながら、森園アリスに、この土地やその背景――すなわち方舟と洪水伝説や神の存在など――について語るのである。その語りが、とことん刺激的だ。キリスト教とイスラム教とユダヤ教の差異や、相互に憎悪する構図を語る一石は、「神は妄想」という自説も説明する。わかりやすい言葉を用いて丁寧かつロジカルに語る一石の言葉は、読者に新たな知識をもたらし、そして読者の先入観を打ち砕いてくれる。つまり読者は“知る喜び”を満喫できるのだ。それこそ一頁ごとに。
そんなスリリングな小説に、周木律はさらなる刺激を加える。連続殺人事件だ。吹雪に封じ込められた標高四二〇〇メートルの第二キャンプ。隊員たちがそれぞれ自分のテントで天候の回復を待つ間に、何者かが彼等を次々と殺めていくのだ。それも様々な殺害方法で……。吹雪の密室とも呼ぶべき状況にある第二キャンプには、さらに極小の密室も登場する。そう、テントだ。テントの内部で人が殺されているのに、そのテントは外側から開閉できないという、そんな事件までもが描かれているのだ。そしてそれらの謎に対して探偵役が解明を加える。誰が、何故、どうやって。このシーンでは、ミステリの愉しみをひたすら純粋に満喫できる。
本書では、方舟を求める旅のなかで、神の真実を問い、密室殺人の真実を求める。彼岸の謎と此岸の謎とでも呼ぶべき両極端の謎ではあるが、この『アールダーの方舟』においては、それらが“人の心を理解する”という共通の太刀で解かれていく。その太刀筋がこの上なく美しい。ミステリとは、ここまで神々しくなれるのだ。
さて、周木律は、極めて人工的な建造物を舞台に大胆なトリックを華麗に駆使し、数学の知識をふんだんに盛り込んだ『眼球堂の殺人』でメフィスト賞を受賞して二〇一三年にデビューした作家だ。同作はシリーズ化され、現在第四弾まで続いている。そのイメージを強く持つ読者も多いかも知れないが、周木律は、謎の伝染病を巡るパニック小説『災厄』も発表しており、デビュー作の“型”に縛られてはいない。そんな彼は、本書で、また新たな挑戦を行った。その結果が、この超弩級の衝撃だったのである。
アララト山の方舟とは一体なんだったのか。周木律の答えが示されるそのピリオドまで、たっぷりと知の塊を味わって欲しい。
(むらかみ・たかし ミステリ書評家)