書評

2015年1月号掲載

反戦的でありながら同時に愛国的に

――須賀しのぶ『紺碧の果てを見よ』

池上冬樹

対象書籍名:『紺碧の果てを見よ』
対象著者:須賀しのぶ
対象書籍ISBN:978-4-10-126974-0

 ここ十数年の間に、戦争を知らない若い世代の戦争小説が増えてきた。終戦間近の潜水艦内部での激しい人間ドラマを活写した福井晴敏『終戦のローレライ』、現代の青年が戦時中にタイムスリップする荻原浩『僕たちの戦争』、沖縄戦を圧倒的な描写力で捉えた古処誠二『遮断』、日系二世たちの過酷な戦争体験を多角的に掘り下げた真保裕一『栄光なき凱旋』、そして簡易潜水服で敵の大型船挺に爆弾を仕掛ける少年たちを描いた熊谷達也『群青に沈め―僕たちの特攻』などが収穫としてあげられるだろう(近未来の日本を舞台にした凄絶な内戦小説、打海文三の応化戦争記三部作『裸者と裸者』『愚者と愚者』『覇者と覇者』も忘れてはならない)。
 このような戦争小説が書かれた背景には、世界の至るところで戦争が繰り広げられている状況もあるかと思うが、日本に関していうなら、ようやく第二次世界大戦をイデオロギー抜きに見直せるだけの時間が経過したとみたほうがいい。それまでは過去の歴史を反省するだけの小説になりがちだったのに、日本を舞台にしながら、戦争の普遍的な非情さ、残酷さ、理不尽さを強烈に捉えている。第二次大戦の戦場、もしくは未来の戦場を描きながら、あきらかに現代の世界でおきている戦争の“現実”を喚起させるような生々しさをもつ。
 ただ、戦争小説と一口にいっても、戦争の悲惨さと残酷さを語って強く反戦を訴えるものか(たとえば古処誠二)、あるいは戦争で亡くなった兵士たちの意味を問いかけるものか(たとえば福井晴敏)の、どちらかに傾きがち。一九七二年生まれの須賀しのぶ『紺碧の果てを見よ』は、両者を含みつつも後者だろうか。とりわけ印象的なのはラストで、そこで語られる敗者たちに向けたメッセージには、思わず落涙。若手女性作家とは思えないほど迫真の戦場場面があり、兵士たちの内的葛藤を力強く描いていて、読み応えがある。
 物語は、関東大震災が起きた大正十二年八月から始まる。
 三浦半島浦賀港の駆逐艦を見て育った尋常小学校六年の会沢鷹志は、海への憧れが強かった。父親は浦賀ドックに勤める職工だし、遠い親戚の永峰宗二は海軍士官。鷹志は彫刻を趣味とする妹の雪子たちと幸せな生活を送っていたが、大震災が起きて、鷹志は永峰家の養子に入り、海軍兵学校をめざす。そんな兄に捨てられたと思った雪子は、彫刻に没頭していく。
 鷹志は兵学校に入り、日本全国から来た学生たちと友情を結び、海軍士官として海防艦に乗船するものの、大東亜戦争は次第に泥沼化して、仲間の兵士たちが次々に死んでいくのを見ていくしかなくなる――。
 関東大震災から第二次世界大戦の敗戦までの二十三年間を描いた群像小説である。場所も変わり、視点も変わり、この小説、どこに向かうのかと不安に感じたところもあるが、米軍との熾烈な戦闘、部下との対峙・教育や終盤の家族模様などを盛り込んで、しっかりと焦点をあわせてくる。痛ましい犠牲を払い、深く傷つき、絶望しながらも、敗戦を迎えた日本人たちの誇りをたたえるのである。誰も負けたくて負けるわけではないが、でも負けざるを得ないとき、どう未来を見据えて生きていくのかを作者は切々と訴える。
 先程も触れたように、戦争小説にはどうしても政治色が入り、塩梅が難しくなるけれど、須賀しのぶは、単なる反戦でも単なる愛国でもなく(いや反戦的でありながら同時に愛国的に)、戦場で戦った者たちの内面に入り、一体何を考え、何を思っていたのか丹念に追い、生き残った者たちの使命を高らかに謳いあげるのである。「諸君は、今までも、そしてこれからも何も変わらぬ。誇り高き防人である。国を、友を、家族を守り育てるものである」と述べるのだ。これがいい。心を揺さぶり、目頭を熱くさせるではないか(もっと感動的な台詞があるけれど、それは本文で確かめてほしい)。
 読者として思うことは、ただひとつ。「国を、友を、家族を守り育てる」人物たちの、その後の姿を読ませてくれないかということだ。鷹志のみならず、顔に痣があるゆえに見合い相手に断られ続けてきて、ようやく鷹志にみそめられた早苗、彫刻家に弟子入りして師匠と不倫関係になる奔放な妹雪子が愛おしく思えてならない(特に早苗がいい)。彼らはどんなふうにして戦後を生き延び、家族を守り育て、国づくりをしていくのか。どんな子供が生まれ、どんな風に成長して、敗戦を経験した父親と母親世代とどのように対峙するのか。一族のその後が気になるのだ。それほど人物たちの思いと生き方が、小説に深く刻み込まれているからである。

 (いけがみ・ふゆき 文芸評論家)

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