書評
2015年1月号掲載
泥酔紳士淑女の皆様、お待たせいたしました
――北大路公子『最後のおでん ああ無情の泥酔日記』(新潮文庫)
対象書籍名:『最後のおでん ああ無情の泥酔日記』(新潮文庫)
対象著者:北大路公子
対象書籍ISBN:978-4-10-138632-4
五〇代で独身、親と同居で趣味は昼酒という北海道が誇るエッセイスト、ケメコ先生こと北大路公子による爆笑エッセイ集の第二弾である。前作の『枕もとに靴 ああ無情の泥酔日記』と同様、今回も副題にある通り、全国の泥酔紳士淑女の皆様の期待を裏切らない珠玉のエピソードがてんこ盛り。時折会話に交じる軽快な北海道弁をかくし味に、前半の「三九歳の日々」は粛々と、後半の「四〇歳の日々」は一転、たたみかける様なテンポで、めくるめく身辺雑記が繰り広げられてゆく。
冒頭は、小学校のクラスメートから突如来た電話での噛み合わない会話を綴った「偽者。」に始まる。酔うたび微妙に異なる方法で何度も財布を落としたかと思えば、素面(しらふ)で家にいる時には、落ちている画鋲(がびょう)を拾った拍子に手にしていた激熱のコーヒーを盛大にこぼす。地下鉄通路で見つけた場違いな一本のネギに対して、野菜室以外の場所でテリトリーを広げているのではないか?という危惧を抱く「野望。」は、三日間おでんを食べ続ける表題作「最後のおでん。」の「練りものは単に均一化された価値観の押しつけ」と共に、食材のそれまでの立ち位置を覆す一大考察だ。「思い出。」では、コイビトであるヤギが中学校時代に通っていたという、パンチパーマを学割で施し、坊主頭の生徒には希望通りにソリコミを入れるという地方の散髪屋の容赦ない営業実態を暴露し、「儚(はかな)く脆(もろ)い。」では、真昼間のビール園でデートしているビミョーな五〇代カップルの関係性を、友人とビールを飲みながら野次馬よろしく観察。春夏秋冬、これでもかという痛飲による仰天エピソードの合間に、自身は飽くことなきテレビ鑑賞をぶれる事無く遂行している。
家族ネタに関してなら、前作の『枕もとに靴』では、アスパラをアシパラと言い間違える父親がキャラ立ちしていたが、今作では生協の宅配にはまり、キッチンペーパーをトイレットペーパーと間違えて大量購入するマイペースな母親の存在が印象的で忘れがたい。
繰り広げられる爆笑エピソードの数々は、そのほとんどが実話だと思うのだが、所々に著者が言うところのウソが入り混じる。あとがきに登場する丸川ヤマオという人物や、この作品でいえばコダマがそれだ。突然差し挿まれる短篇「二番目に大切なもの。」にぱっくりと口を開けているコダマという漆黒の穴は、あの世とこの世をつなぐ深い闇を思わせる。台風の後、自分の二番目に大切なものをコダマに投げ入れるという幻想的な物語は、“私”が二番目に大切なものを選んだ所で終わり、その穴がなぜ出現するのかも、投げ入れるものがなぜ二番目に大切なものでなくてはならないのかも明らかにはされない。明らかにされないから、なお一層のこと恐い。願わくば、“私”が、コダマに二番目に大切なものを投げ入れた後に続く物語を読みたいと思う。“私”は、他ならぬ北大路公子その人で、ウソの中でそれだけが本当の事の様に思えるからだ。
ケメコ先生のエッセイを読んでいると、さんざん笑わされた挙句に、一抹のせつなさを覚えてしまうから不思議だ。お正月明けの浮かれ気分で過ごしていた冬休みがふと気付くと終わっていて、一人ポツンと取り残された様な気分になる。某新聞社主催の飲み会で、何度かお目にかかったことのあるケメコ先生を思い出す。ニコニコしながら淡々と杯を重ね、見た感じそう熱心に人の話を聞いている風でも無いのに(失礼!)、下手な事を話すと、「無いわ~」という一言が間髪を容れずに飛んできた。他に面白い話もしていたはずなのになぜかその事だけはよく覚えていて、作家の原点である処女作の『枕もとに靴』と、この『最後のおでん』を通読すると、どんなに酔っていても、自他共に見つめる客観的な視点が作品の根底にもゆるぎなく流れているのだと改めて思う。
万物は流れ、変わるものと変わらぬものがあり、宴(うたげ)の後も人生は続いてゆく。読んでいる時間だけは確かに本当で、しかし、本を閉じれば嘘か真か解らぬ玉手箱。そんな人を煙(けむ)に巻く様な読後感を味わいたくて、気付くと何度も作品を繙いている自分がいる。
(きくち・たかこ 書店員)