書評
2015年1月号掲載
『書き出し小説』刊行記念特集
なぜ「書き出しだけ」が面白いのか
――天久聖一/編『書き出し小説』
対象書籍名:『書き出し小説』
対象著者:天久聖一/編
対象書籍ISBN:978-4-10-336931-8
医者は医師免許を取得すれば、プロだ。開業初日の新人でもベテランでも、医学についての知見を一応は等しく持っているだろうとみなされる。
小説家も同じようにみなされる。雑誌に小説が掲載されたり本が発売されたら、プロであって、それはつまり小説について定見があるのだろう、と。
全然違う。新人賞を受賞してデビューしても(周囲からの肩書きはその時点で「小説家」になるのだが)、当人には小説観がまるで備わっていない。小説の定見というのは、その人なりにだんだんと備えていくものだ。今もまだ分からない。
本書を読むと、定見をもてない小説というものの輪郭がつかの間、分かる気がする。小説の優れた書き出し「だけ」を募集し、厳選された秀作が収められていて、一編がせいぜい数行だ。
●ポールを駆け上がる国旗のスピードに、会場が少しざわついた。(哲ひと)
●「このガマ乗りにくいわね」女は不機嫌そうにそう言った。(夏猫)
●その動物のひげを引っ張ってみると、反対側のひげが短くなった。(おかめちゃん)
●席をつめたがカップルは座ろうとせず、私はただ横の老婆にすり寄っただけの人間になってしまった。(大伴)
といった作品が、一ページに一~数個。どれもさまざまなベクトルに面白く、変な鑑賞などせずに列挙するだけで書評の(本書に興味を持たせるための)用は足りると思うのだが、本書を読めば「考え」もまた深まることを特筆したい。小説に対する考えがだ。
たとえば、これまでの小説の書き出しに思う。やれ、メロスは激怒したとか、親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしているだとか、私の名前はイシュメールとでもしておこうだとか、いろいろいうが、ずいぶん乱暴に切り出されていたのだな。メロスなんて知らない。親譲りの親って誰だ。あげく本名も濁されて、勝手じゃないか。
小説を読むとき、小説の持つ乱暴さを乱暴と思わずに我々は従っている。膨大な本文(書き出しも本文だが)を乱暴に取り除いてみたらそれが滑稽であることが分かったし、小説の効用も分かった気がした。小説は世界を乱暴に取り扱うことが出来、そのくせ読者を傷つけない。
小説側にもだが、読み手にも作用があるらしい。読み手は小説を読む時に必ず「小説」を意識している。本書がただの「あるある」の面白さではないのは、どの短文にも「続き」をうっすら感じるからだが、なぜ感じてしまうんだろう。
僕は大学で教えているのだが、あるとき授業で「イントロクイズ」をやった。ディープ・パープルやAKB48のヒット曲など取り混ぜて、イントロだけを聴かせて当てさせる。ビートルズの、ほとんどギターコード一つが鳴っただけで、生徒達は挙手した。十問ほど続けてから今度は「アウトロクイズ」をやった。ベートーベンの『運命』といえば十人中十人が「ジャジャジャジャーン」という。それはイントロだ。『運命』の終わり方を答えられる人はいない。アウトロクイズはやはり正解率がガタ落ちした。
表現の始まりには欲がある。終わりにはない。小説の書き出しには、語りたいし語られたいという(読み手と書き手)双方の欲が宿っている。だから単体で覚えるし、先を勝手に予感して味わえる。
予感だけで本体のない書き出し小説は、ある意味で現存の小説の書き出しよりも優れているといえるが、本体を書かなければすべて優れた書き出しになるわけでは、もちろんない。
編者の優れた選択眼で、それはなされた。ただの「大喜利」的な企画本ではない、小説らしさのこと、小説のことを熟慮して本書は編纂されている。編者の近作『ノベライズ・テレビジョン』と並び、小説に対する高い批評性を持った一冊だ。
余談だが本書には拙作も一つ、採用されている(凡コバ夫名義)。投稿が掲載されたと知って、道端で(本当に)快哉の叫びをあげた。立派な文学賞を受賞したときに等しい喜びであった。
(ながしま・ゆう 作家)