書評

2015年2月号掲載

強くあるための方法

――カルミネ・アバーテ『風の丘』(新潮クレスト・ブックス)

小山田浩子

対象書籍名:『風の丘』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:カルミネ・アバーテ著/関口英子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590115-8

 イタリア南部カラブリア地方にあるとされる架空の丘ロッサルコ、そこでは春になると無数の赤い花が咲き、秋になれば果樹や作物が豊かに実る。種々の植物や海、太陽などが織りなす芳しい風が吹く丘と、丘を所有するアルクーリ家の人々は深く結びついている。丘の上で繰り広げられる新たな命の誕生や出会い、収穫の喜び……一方で、丘には不穏で暗い秘密、流血の過去もまた閉じ込められている。そこで何が起ころうとも丘に吹く風は爽やかで甘い。同じように、この小説の文体はどんな悲劇を語るときも平易で軽々としている。読んでいると自分も丘を吹く風の中にいるような気がしてくる。
 語り手はアルクーリ家の若者リーノ、故郷を離れ教師をしている彼は、休暇中に父ミケランジェロとロッサルコの丘で過ごしていた。そこで突然父が彼に「よきにつけ悪しきにつけロッサルコの丘と深く結ばれた俺たち家族の」物語を語り始める。「(前略)俺が死に、俺と一緒に家族の物語まで消えて失くなってしまう前に、お前は真実を知っておかねばならん。そしていつの日か、こんどはお前が自分の子どもたちにそれを語って聞かせるんだ。約束してくれるな?」
 ミケランジェロの祖父アルベルトから始まる物語、それは丘を守るため多くの犠牲を払い、喜びだけでなく悲しみも受け入れてきた、家族と土地の物語だった。丘を少しずつ手に入れ、岩だらけの土地を耕し人が羨むほどの豊穣の畑にしたアルベルト、第一次世界大戦や無実の罪での告発などの苦難に見舞われながらも丘と家族を守り続けたその息子アルトゥーロ、成績優秀で都会へ進学し教師の職を手にしかけた時に第二次世界大戦に巻き込まれたミケランジェロ。香り立つ丘を愛する彼らには多くの敵が近づいてくる。地主ドン・リコ、力を増すファシスト、風光明媚さに目をつけたリゾート開発会社、風を「無色透明の黄金」と呼び発電用風車を建てようとする人々……お題目こそ時代によって変化するが、甘言で近づき牙を剥く手口は変わらない。一家は嫌がらせを受け流刑の憂き目、血みどろの報復にさえあうが、それでも丘に固執する。全く別の方向から丘にやってくる人々もいる。考古学者パオロ・オルシやウンベルト・ザノッティ=ビアンコ、彼らは丘に古代都市クリミサが眠っていると信じ、発掘調査を始める。期待と不安を感じつつ一家は発掘を見守る。戦争や事件のため何度も中断する発掘は、丘に思いもよらぬ結果をもたらす。
 小説の中で、学生時代のミケランジェロは妹にギリシア神話の英雄ピロクテテスについて話をしてやったあとでこう言う。「ピロクテテスのことならホメロスも書いてるし、ソポクレスはピロクテテスを主人公にして悲劇を書いた。ストラボンの著作にも出てくる。そこに自分の空想を加えたんだ。古代の著述家だっていろいろ想像して書いているわけだから、僕が考えた物語のほうが真実に近い可能性もある」いつしか老父となっているミケランジェロがリーノに聞かせた一家の物語もまた、ピロクテテスにしたのと同じように彼なりの編集を加えた物語だと言えるだろう。単なる事実の羅列ではなく、語られ記憶され後の代へと語り伝えられるための、彼らにとって唯一無二の物語、そこでは大切な出来事は詳細に語られただろうし、そうでもない出来事は忘れ去られただろう。邪魔だと削られた事実もあったかもしれない。二世代三世代と時が経つごとに、物語は彼らだけのための真実へと昇華される。その真実は貧困や理不尽に責め苛まれる彼らの心の拠り所となる。リーノもまた、自分の分の歴史を加えて編集更新した物語を真実として次代へ伝えねばならない。「約束してくれるな?」ミケランジェロは息子に何度も念を押す。呪縛ともとれるほど執拗なその老父の態度は、歴史が途切れることへの恐れからきている。しかし、それは死が近づいている自分のための恐れではない。家族の、土地の、記憶の歴史というものが人にとっていかに大切か老父は知っている。泣き怒り絶望しながらも、自らへと続く人々の営みを感じ敬意を抱くことが彼らを支えてきた。その支えを次代さらに次代へと繋げることが、彼らが強くあるための方法、子孫への何よりの遺産なのだろう。

(おやまだ・ひろこ 作家)

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