書評

2015年2月号掲載

時代に選ばれた戦争小説

――高橋弘希『指の骨』

陣野俊史

対象書籍名:『指の骨』
対象著者:高橋弘希
対象書籍ISBN:978-4-10-120991-3

「黄色い街道がどこまでも伸びていた」
 この小説はこうして始まる。「赤道のやや下に浮かぶ、巨大な島。その島から南東に伸びる細長い半島」。このあたりが小説の舞台だ。主人公たちは、内地を出発すると、「グァム島、ニューブリテン島と経由して」、島に到着。怪我を負い、野戦病院に入る。幼馴染の戦友との会話、軍医との交流。「原住民」との言語のやりとり。死を覚悟した行軍の中で、次々と死んでいく仲間たち、カニバリズムのさりげない示唆……。
 よくできた「戦争小説」である。じっさい、この小説が第46回新潮新人賞を受賞した後に公表された、選考委員の選評や、辛口で有名な(?)文芸評論家の時評にも、賛辞が溢れていた。私は生来の天邪鬼だし、他の人より若干「戦争小説」を多く読んでいるという自負もあったので、そう簡単には認めないぞという邪な反撥心を持って読んだ。
 当惑した。その理由は、三十代の若い作者が書いた「戦争小説」としてよくできていたからではないし、細部まで精密に描かれた戦記に似ていたからでもない。それがまるで戦後文学だったから、私は当惑したのだ。大岡昇平らの文学の正確な反復になっていると思ったのである。たぶん戦後文学に親しんだ人ならば、誰もがそう感じるだろう。
 このとき、三つほど主な反応が考えられる。ひとつは、この小説はたしかによくできているが、体験に根差したものではなく、いわば事後的に学習して獲得された戦争の知識に拠っている以上、「戦争文学」として如何なものか、というもの。「戦記オタク」が情報を再構築して書いたものではないか、という批判だ。私はこの批判は当たらないと考える。具体例を出せば、左脚の創傷が悪化した清水という戦友と一緒に外出するために、松葉杖を借りるシーンがある。清水は松葉杖を脇に挟んでベッドから起き上がろうとするのだが、「杖の一本はそのままゆっくりと床へ倒れていった」。なぜか。清水本人も、自分の左手首から先がないことを忘れていたからである。むろん松葉杖を掴むことはできない。「杖が倒れていくまで、本人もそのことに気づいていなかった」と記述される。このあたりの想像力は、並みではない。
 二つめの反応はこうだ。戦後文学もすでに長い歴史を刻んでいる。戦争は多くの作家の文学的挑戦によって描かれてきた。そうした歴史を踏まえていないのではないか、という批判である。文学的出発に『石の来歴』を持ち、『グランド・ミステリー』や『神器』ではミステリーの手法を駆使しながら独自の戦争文学を追求してきた奥泉光や、従軍する人間たち同士の関係性を執拗に追求してきた古処誠二、浅田次郎といった作家たちの文業を、この若い作家はどう考えているのか、と。いわば「戦争文学史観」に則った立場である。
 それもこれも、この小説が、あまりに戦後文学にそっくりだからである。つまり、あまりに『野火』なのではないか、と(これが第三の反応)。人はここで考え込む。
 ある者は、大岡昇平に回帰するだろう。それはそれでいい。だが私は別の結論に至った。この小説は時代に選ばれた小説である。終わりのほうに、主人公の呟くこんなパッセージがある。「果たしてこれは戦争だろうか」。野戦病院を出て、再び戦争の渦中に放り込まれると思ったら、武器ももたずに「ただ歩いているだけ」。誰とも戦わず、一人ずつ死んでいく。「これは戦争なのだ、呟きながら歩いた。これも戦争なのだ。しかしいくら呟いてみても、その言葉は私に沁みてこなかった」とある。「戦争」の文字を「戦争小説」に置き換えてみたくなる。およそいまふうの「戦争小説」ではない。だが、これは紛れもなく「戦争小説」である。キナ臭いこの時代の選んだ戦争小説なのだ。
 そういえば市川崑監督の映画『野火』もまた、今年、塚本晋也監督の手でまったく別の『野火』になる、と聞いた。

 (じんの・としふみ 文芸評論家)

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