書評
2015年2月号掲載
大学のコウモリとさほど変わらないこと
――小林朋道『ヒトの脳にはクセがある 動物行動学的人間論』(新潮選書)
対象書籍名:『ヒトの脳にはクセがある 動物行動学的人間論』(新潮選書)
対象著者:小林朋道
対象書籍ISBN:978-4-10-603761-0
私は今、研究のために大学の教官室で三種類のコウモリを飼っている。デスクワークをしながらでも彼らの行動が見えるように、机の上に飼育容器を置いている。餌としてミールワームを与えているのだが、ときどきコウモリを飼育箱から取り出して左手にもち、右手で虫を口に近づけて食べさせる。モモジロコウモリとユビナガコウモリは気持ちいいほどの勢いで餌に喰らいつき、それはそれはおいしそうに餌を食べる。
ちなみに彼らを間近で見ていると、本来計画していた研究のテーマとはまったく別な内容の、とても興味深い現象をたくさん発見することになる(それについては別の機会に是非お話したい)。
小さな体の“空飛ぶ哺乳類”を手にとって触れ合っていると、心臓の鼓動や体全体の力強い動き、四肢のしなやかな運動、表情の豊かな変化……を体感し、「あー、これが生命なんだ!」と叫びたくなる。これこそが私を生物に向かわせる、掛け値なし、駆け引きなし、世渡りなし(?)の、私にとっての科学の原点なのだと思う。その一方で、翼や透けて見える長細い骨、口を大きく広げる超音波の発声行動などに改めて目を奪われ、暗闇の世界で生きる“空飛ぶ哺乳類”を生み出した進化のものすごい力を思うのである。
ところで以前、夏休みに一カ月以上インドを旅してきた学生が教官室を訪ねてきて、次のようなことを話してくれた。
「先生、ぼくはインドで、大げさに言うと生きるか死ぬかの、日本では考えられないような場面に何度か出合いました。文化も人々の生活も、日本とは全く違うんですよ」
そう、外から見ると、それまで当たり前だと思っていた日本の文化や生活が実は“当たり前”ではなく、よく言えば新鮮に浮き上がって、より客観的に見えるようになってくる。
そして同じように、ヒト(ホモサピエンス)を一歩引いて、外から見てみると、全世界のヒトに共通した、それまで“当たり前”に思っていた(気にも留めなかった)性質(たとえば、眼球に白眼があるとか、乳頭は二つしかないとか、複雑な文章をつくる……みたいな)が“なぜだろう”と問いたいような出来事に思えてくるのである。
コウモリの話に戻る。ユビナガコウモリに生きて動くミールワームを近づけると、口を開け、やたらに超音波を発して懸命に対象を認知しようとする動作を見せる。でも、虫が全く動かないとき、彼らは虫に反応しない。そんなときは直接、虫を口にいれてやる。そして、「あなたは虫が動かないとそれがわからないんだねー」とか言って、頭を撫でてやる。コウモリは、頭をかがめ、接触を避けようとする。“頭をなでる”という、ヒトでは当たり前の動作が彼らには通じない。
さて、少しだけヒトを外から眺めてみると、コウモリに負けず劣らず、われわれホモサピエンスも、林や湖が散在した乾燥平原での狩猟採集生活に進化的に適応した、かなりユニークな生命体であることに気づく。もちろん、白眼や二つの乳頭や複雑な文章だけではない。直立、体毛の消失、大きな脳、協力心と罪の意識、理論的思考……。
宇宙のどこからか、いわゆる知的生命体がやってきてヒトに接したとき、彼らは、私がユビナガコウモリにむかって言ったように次のような疑問を発するかもしれない。
「あなたがたは、地位とか名誉とか愛とか言って、よく争ったり悲しんだり、助けたりするんだねー」。また、「脳という物理的な存在からなぜ意識みたいな非物理的なものが生じるのか考えて悩んだりするんだねー」。あるいは、「時間という感覚をもっているんだねー」と。
繰り返しになるが、コウモリの形態や脳の構造・性能が進化の産物であるように、ヒトの形態や脳の構造・性能も、間違いなく進化の産物なのである。その上でわれわれは認めなければならないのだ。コウモリが生きる世界で、生存・繁殖上必要がなくて、進化しなかった脳の性能があるように、ヒトが生きる世界で、生存・繁殖上必要がなくて、進化しなかった脳の性能があることを。それは単なる不可知論ではない。動物行動学という科学が提示する、限界ももったヒトの認知の姿である。本書は、そうした私たちにとっては当たり前の、ヒトの行動と思考のヘンな特徴について紹介している。
私は、ユビナガコウモリの脳の性能を、ユビナガコウモリの脳のクセと呼んでいる。今のところその呼び方が一番ぴったりくる表現なのだ。本書のタイトルが「ヒトの脳にはクセがある」なのもそういう理由からだ。
ちなみに、本書には、コウモリの話はでてきません。
(こばやし・ともみち 動物行動学者)