書評

2015年3月号掲載

古典から生まれた新しい物語

――高尾長良『影媛』

蜂飼耳

対象書籍名:『影媛』
対象著者:高尾長良
対象書籍ISBN:978-4-10-333522-1

 古代文学にもとづく題材を、新たな視点と感覚で描いた小説の誕生に、驚かされた。高尾長良の小説『影媛』は、そのタイトルからわかるように、『日本書紀』巻十六・武烈天皇紀に記される影媛をめぐる歌物語を軸として展開される。『古事記』や『万葉集』に見られる語彙も豊かに取り入れながら、全体としては、作者独自の影媛像や平群臣志毘(しび)の人物像が形づくられ、自在なひろがりをもつ作品となっている。古代文学に描かれる悲恋に取材して書き直したというよりは、そこを出発点としながらも、縛られない発想で描かれた独自の小説と呼ぶにふさわしい世界が形成されている。
 物部麁鹿火(あらかい)の娘である影媛には、巫(かんなぎ)としての務めをはたす能力がそなわっている。「御祖を降ろし得、太占(ふとまに)に占い得るのは影媛のみぞ」と表される。物部麁鹿火は、太子(ひつぎのみこ)が娘を聘(あと)うことを望んでいる。とはいえ、太子はまだ十歳。影媛の方がずっと年長なのだ。平群真鳥の子息である志毘に対し、影媛は当初、敵対関係にある。理由の一つは、志毘が「用無き戮し」をおこなうことで、影媛は翠鳥(そにどり)に姿を変えて飛び、森の生き物たちに対して「警すべし」と警告を発する。だが「他の生き物の警を聞く様な獣は、此処では生きないだろう」という一文が示すように、その言は思うようには届かない。
 一語一語、緻密に組み上げられていく文章が、影媛と志毘の関係の推移や、人と鳥獣などの生き物が織り成す世界を浮かび上がらせる。影媛と志毘の関係の変化、つまり敵対していた二人が少しずつ恋と呼んでもいい感情で結ばれていく過程が、作品の主軸となっていることは確かだ。けれど、それだけがこの小説の構図ではない。背景には「山野の王」と呼ばれる鹿が生きる森がある。二人の関係も、この鹿の生命と切り離せるものではない。人の力を超えた世界が暗示される。
 志毘は山野の王を殺す。その鹿を解体し、皮を得て、舞を舞う際にかぶる。影媛はその舞を目にして、他の者たちの舞とは違うと気づく。単に優れているという意味ではない。生命に係わる、もっと根源的な意味において、明らかに異なる舞だ。こう描かれる。「今尚活き続け、新たな命の亡びを求めている毛皮と、亡びの処へと引き摺られるのを頑なに拒み、抗う毛皮の内の躰とが、互いに引き裂き合っていた。身舎(もや)の冷ややかな板の上で、閉じられた闘いを戦っていた。周囲から遮られ、介される事も拒まれていた」。
 この小説は、均等に、細部まで力を入れて書かれているからか、ときによって別の箇所やモチーフが強調されて見えてくるのだが、もしかすると、作者がとりわけ描きたかったこと、書けば書くほどおのずと描き出されたことというのは、こういう点ではないかと思う。山野の王である鹿は殺され、命は、躰から離れて別のかたちへと移る。それを表すのが象徴的に使われる「青い影」だ。影媛の悲しみや苦しみも、最終的には青い影が暗示する方向へ、次の場へと導かれる。
 古代文学に親しむ読者にとっては、この小説に出てくる言葉から遡ってひろがるイメージがもたらすものを受け取ることも愉しみの一つとなるだろう。たとえば「一ツ火は忌むものを」という箇所からは、『日本書紀』神代の黄泉のイザナキ・イザナミに係わる記述が想起される。「山々の間に隠る泊瀬」とあれば、地名「泊瀬」にかかる「隠り口の」という枕詞が浮かぶ。神武東征に係わる久米部による闘いの歌も出てくれば、先に記した志毘が舞う鹿の舞に伴う歌としては『万葉集』巻十六に載る「乞食者が詠う歌」が引用されている。これらの引用は、古語を理解し咀嚼しなければ可能とはならない方法によっている。その意味においても労作だ。
 日本語文学を遡るところに位置するさまざまな古代文学を、噛み砕いて転用した新鮮なかたち。古代文学のなかでは語られていない部分に、さらに言葉を与えたらどうなるか試みた作品。それが『影媛』だ。いくつもの引き出しを持っている作者が、これからどんな小説を、どんな言葉を書き表していくのか、期待を抱かせる作品となっている。古語辞典を引くような箇所も多少あるけれど、それが同時に、言葉にふれる愉しみを運んでくる。端から端まで、言葉と出会う感触がたっぷりと詰まっている小説だ。

 (はちかい・みみ 詩人・小説家)

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