書評

2015年3月号掲載

「だれか探し」の行方

――朝倉かすみ『乙女の家』

青衣茗荷

対象書籍名:『乙女の家』
対象著者:朝倉かすみ
対象書籍ISBN:978-4-10-120132-0

 朝倉かすみは、腹にたまる作家だ。腹におちた言葉がからだのなかで活発に動く。だから、朝倉かすみの小説を読むときはいつもからだが動く。ごろごろと転がったり、立ち上がったり、朗読したり、じっとしていない。今作も、からだをあそばせながら読んだ。
 主人公・若竹若菜は高校二年生。両親は二年前に別居し、母・弟とともに祖母の家で暮らしている。けれど平日の夕飯は父も一緒に過ごす。別居の際に母が「夕ごはんは家族そろって食べること」という条件を出したからだ。静かに淡々と過ぎる「平日の儀式」。若菜は母を「かたちというもの」を「重んじる傾向」の人だと思う。
 若菜は自分を「付和雷同型」だと思う。自分を主張することなく「水中をただようクラゲ」のように「友だちや、家族のあいだで、ぷかぷか浮かんでいるだけ」。だから若菜は「他者」に対して「特徴」を持たせる「新しい人物像」を欲していた。それは「他者が目にする『若菜というひと』」の「イメージ」であり、決して「自分」が「主体」となるものではない。若菜は「若菜のなか」でも「他者」のなかでも「チャーミングな脇役」でありたいと思い、その「キャラ」を探している。「じつはひそかに」自分探し、ならぬ「『だれか探し』の真っ最中なの」だ。
 そしてある日若菜は、以前から気になっていた、「直球の文学少女キャラ」である図書委員の同級生・高橋さんに声をかける。高橋さんもまた、キャラにこだわって生きていた。知り合って一か月後、それぞれの理由を胸に、ふたりは一緒に家出を決行する。
 若菜と高橋さん。「キャラ」にこだわるという点では同じだけれど、高橋さんの「キャラ設定」は若菜とは対照的で、あくまで高橋さんの「内側」にあるものが基盤となっている。だから高橋さんはいつでも、高橋さん然、としている。若菜と高橋さんが、会話と行動を重ね、お互いに新鮮な刺激を受けながらだんだん、いいコンビ、になっていくのが気もちいい。
 若菜の家族には、波乱万丈な女性たちがいる。ながく曾祖父の「愛人」のような立場だった曾祖母・和子、一六歳で妊娠し高校を中退した「元ツッパリ」祖母・洋子、ふたりを反面教師に「普通」にこだわってきた母・あゆみ。今なお三人は「乙女」のように浮き足立つ女心をもっている。
 そんな祖母たちや高橋さん、そしてクラスメイト、バイト先のおばちゃんなど、若菜に関わる多くの人との時間のなかで若菜が感じる、ざわざわ・ざらざらした心の感触。それは若菜だけが感じる「他者」との摩擦音だ。若菜はその音に心を澄まし、言葉にする。ときにそれが不快なものや疑念であっても、若菜はなぜ自分がそんなふうに感じるのか、考える。自分の心のなかのいろんな場所を行ったり来たりしながら。
 物語は、その音に応えながらすすむ若菜の姿を中心に描かれる。家族や友人のあらゆる事情のなかで若菜の「キャラ」はどんなふうに変化するのか。「だれか探し」の行方はどうなるのか。
 わちゃわちゃした祖母たちのおしゃべりや、高橋さんとの会話、四世代にまたがる家族ドラマを楽しみながら、くるくるまわる若菜の「内側」の変化に引きこまれる。そして、若菜が、いま「自分」はどこにいるのかを確かめながら、周りの人々と過ごす姿に、時折胸をうたれる。ひとりで生きているわけがない、「他者」という景色に映りこむ、あらゆる自分の姿を、軽やかに肯定していきたい、と思うのだ。
 若菜が、自分の思いや考えたことを記すノートがある。表紙に書いたタイトルは「WTC」。「ワカナノトチュウ」のアルファベット表記の略だ。一七歳の若菜の「途中」の言葉、考え、思い。自分はいま、ここまで分かった、ここまで考えた、という「途中」のページ。それはこれからどんどん増えるだろう。若菜の人生はまだ続く。その先をわたしは知ることはできないけれど、どうか、若菜にとって多くの時間が、すとん、と腑に落ちるようなものであるように、と思う。

 (あおい・みょうが イラストレーター)

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