書評

2015年3月号掲載

『宰相A』刊行記念特集

全体主義的国家のグロテスクな寓話

――田中慎弥『宰相A』

越川芳明

対象書籍名:『宰相A』
対象著者:田中慎弥
対象書籍ISBN:978-4-10-133484-4

「私」こと、Tが母の墓参りのためにO町を訪れる。小説家である「私」は、最近ネタが尽きており、約30年ぶりの墓参りを切っ掛けに浮上をはかろうという魂胆だ。
 だが、「私」がOの駅に到着したとたんに、物語は一転して、パラレルワールドの世界に突入する。「私」が迷い込む世界は、もう一つの「日本」だ。
「私」が迷い込んだもう一つの「日本」は、先の大戦後に、アングロサクソン系のアメリカ人が占拠して、そのまま「日本国」を継承。公用語として自分たちの言語である英語を採用。それまで日本人だった者(モンゴロイド系)は、「旧日本人/先住民」として特別なゲットー(居住区)に押し込められたという。
 このもう一つの「日本」の特徴は、次の三つだ。一つ目は、アングロサクソン系の日本人は皆、緑色の制服を着ている。「制服/軍服」の着用は、「日本人」の重要な義務の一つである。
 制服と私服の対立がこの小説に、「善」と「悪」をめぐる二元論的思考という変奏を加える。三島由紀夫の自害(一九七〇年)と映画『ゴッドファーザー』(一九七二年)が小説の中で何度も言及されるが、三島の場合は、私服を捨てて軍服に着替えた例(軍人)として、『ゴッドファーザー』のマイケル(アル・パチーノ)は、逆に軍服を捨てて私服に着替えた者(マフィア)として好対照をなす。軍服による殺人は、「戦争」という大義ゆえに許容され、ときに「武勲」として称えられるが、私服での殺人は、マイケルの場合のように、悪辣な「犯罪」と見なされる。同じ殺人なのに、倫理的な観点からすると、その違いはどこにあるのか、とこの寓話は問う。
 二つ目の特徴は、「民主主義」を政体の根幹に据えておきながら、このもう一つの「日本」のやっていることは、全体主義的な独裁である。個人の自由は許されず、芸術家や小説家も国家のための道具にすぎない。国家と関わりのない表現は「反民主主義」的な行為と見なされる。「旧日本人」でも、新生「日本」に忠誠と貢献を誓えば、「日本人」になることができる。その代表的な例が、この小説のタイトルにもなっている「宰相A」である。「日本」を作り出したアングロサクソン系の者たちは、国民の三分の二以上をなす「旧日本人」の反乱を怖れ、政府のトップに「旧日本人」のAを据えたのだ。もちろん、「宰相A」は傀儡(かいらい)にすぎない。
 三つ目は、アメリカと同盟を結んで、「平和のための戦争」をくり返す「好戦性」だ。「宰相A」は、「戦争こそ平和の何よりの基盤」とか、「戦争は平和の偉大なる母」とか、詭弁を弄する。そうした詭弁は理解不能なまでにねじ曲げられた「宰相A」の所信表明となる。すなわち、「最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります」と。
 思えば、メイフラワー号に乗った清教徒(ピューリタン)たちの「新大陸」への到来以来、アメリカは内外に敵を作りあげ、たえず戦争を仕掛けることで生き延びてきた国家である。ニューイングランドにいた先住民の虐殺を手始めに、イギリス、スペインなどのヨーロッパ勢に挑み、19世紀半ばにはメキシコを、冷戦時代にはソ連と東欧を、現代ではイスラム国を相手に……。国内でも、17世紀末に清教徒たちは「魔女狩り」に熱をあげる。その後、国内の黒人(奴隷制)、中国人(1882年の中国人排斥法)や日本人(1924年の排日移民法)をやり玉にあげ、1950年代初頭には「赤狩り」というもう一つの「魔女狩り」が生まれる。清教徒の「血」の中に、「浄化する(ピューリファイ)」というDNAがある限り、「異物」を排除しようとする欲望は消えない。
 というわけで、登場人物の「宰相A」は、自身の英語へのコンプレックスゆえに小学生から英語を習わせようとしたり、国民の命や暮らしを守るために、憲法第9条を見直して、安全保障法制の整備をする、などと述べたりしている、どこかの首相(これもなぜかAだ)を容易に思い出させる。だから、これは現在の日本にまっすぐつながる怖くてグロテスクな「寓話」なのだ。

 (こしかわ・よしあき アメリカ文学者)

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