書評

2015年3月号掲載

お茶はゆっくり飲むのがいい

――渡辺都『お茶の味 京都寺町 一保堂茶舖』

永江朗

対象書籍名:『お茶の味 京都寺町 一保堂茶舖』
対象著者:渡辺都
対象書籍ISBN:978-4-10-102141-6

 一保堂(いっぽどう)の前に立つとほっとする。一保堂は京都の日本茶専門店で、享保年間、一七一七年に始まったというから、もうすぐ創業三〇〇年になる老舗だ。
 ぼくは四年ほど前から、毎月、一週間から十日間ほどを京都ですごしている。京都駅で新幹線から地下鉄に乗り換え、京都市役所前で降りる。地上に出て寺町通を北上する。御池通、押小路通、二条通と、道を渡るにつれて心がだんだん京都モードになってくる。そして一保堂の暖簾(のれん)の前で、深く息を吸い込む。お茶の香りを全身に行き渡らせるように。京都に帰ってきたな、という気持ちになる。ぼくの家はもう少し先、下御霊(しもごりょう)神社の手前を入ったところにあって、京都にいる間は毎日のように一保堂の前を通る。
 渡辺都さんは一保堂の奥さんで、『お茶の味』には渡辺さんが京都暮らしのなかで日々感じたことや思ったことが書かれている。感心したのは、いやなことがひとつも書かれていない点だ。エッセイを書こうとすると、つい世の中にモノ申したくなる。きっと渡辺さんにもそういうことはあるはずなのだけど、この本にはない。楽しいこと、気持ちのいいことだけが書かれている。まるで日本茶のようだ。
 役に立つこともたくさん書かれている。たとえばお茶をおいしく淹(い)れるコツ。日本茶はもっとも身近な飲み物なのに、なかなか上手に淹れられない。ぼくはコーヒーには少し自信があるけれども、抹茶もお薄ならまあまあ点(た)てられるかなと思ったりもするけれど、ごく普通の煎茶はまるでだめだ。でもこの本には秘訣が書かれている。茶葉とお湯の量、お湯の温度、そして茶葉をお湯に浸しておく時間の、四つがポイントだそうだ。
 知らなかったこともたくさんある。たとえば玉露は日本茶の仲間では歴史がいちばん新しいということ。なんと、つくられるようになったのは幕末になってからだという。玉露は抹茶用の茶葉を煎茶の製法でつくったもの。生産性向上で抹茶が余るようになり、その新たな利用法として生み出されたのが玉露なのだとか。玉露がいちばん古い、だから高級なんだ、とぼくは思い込んでいた。
 この玉露を氷水で淹れることを渡辺さんはすすめる。ひんやりと冷たく旨みのあるしっかりとした味になるという。老舗の奥さんだから、「冷たいお茶なんて、あきまへん」というかと思ったら正反対だった。この夏、ぜひ挑戦してみよう。
 このエッセイ集のベースになっているのは、季刊誌『考える人』に連載された「京都寺町お茶ごよみ」を改稿したものだが、それだけでなく、『京都新聞』に連載されたエッセイや、書き下ろしも含まれている。『考える人』で欠かさず読んでいた人、バックナンバーを揃えている人にも、この本はぜひおすすめしたい。
 とりわけ書き下ろしの二編、「茶事のよろこび」と「お稽古のこと」には、涙がこぼれそうになるくらい心を揺すぶられた。大阪の川沿いのマンションで催された茶事に招かれた思い出は、もう二十年以上も前のことなのに、蹲踞(つくばい)代わりの蛇口の下の黒い石や、待合の掛け軸代わりの映像(映画『雨月物語』の一部)にはじまり、モーターボートで淀屋橋まで送ってもらったことまで細かく記されている。茶の湯の奥深さと広さをあらためて感じるエピソードだ。そして昨年、渡辺さんは茶事の亭主をつとめたのだという。その趣向がまた素晴らしい。二十年前の感動をそのまま持続して別の形で表現する感性のみずみずしさがよくあらわれている。
 ところで、この本をたのしむコツがある。それはゆっくり読むこと。あなたがいつも読むスピードより二割ぐらいゆっくり読むと、言葉と言葉のあいだから香りと味がしみ出てくるだろう。

 (ながえ・あきら フリーライター)

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