書評
2015年3月号掲載
裏方の記
――辰巳芳子『食に生きて 私が大切に思うこと』
対象書籍名:『食に生きて 私が大切に思うこと』
対象著者:辰巳芳子
対象書籍ISBN:978-4-10-339031-2
そもそもの始まりは新潮社の、当時『とんぼの本』シリーズを担当していた編集者S君が、「何とか辰巳芳子先生を口説き落として一冊まとめたい。力を貸してください」と、私の所へやって来た二年前の春だった。
私が縁あって辰巳芳子に師事するようになってそろそろ十年近くだろうか。雑誌で対談の相手を務めたり、辰巳芳子が各界著名人と対談するのを横で聞いていて原稿にまとめたり……そんな裏方の手伝いをしていることをS君は承知していて、それで私に話を持ってきたわけだ。
「辰巳芳子の料理の本は数え切れないほどある。しかし、辰巳芳子が自分自身について直接語った一代記というか、自叙伝というか、そういう本はまだないな……」
「絶対、辰巳先生ならではのユニークな人生談義になると思います。そのお話の聞書きをぜひ佐藤さんにお願いします」
そんなことから毎月一回、S君と私が鎌倉は浄明寺の辰巳邸を訪ね、ほぼ二時間、毎回一つのテーマで話をしてもらった成果が、二年がかりでやっとできた『食に生きて 私が大切に思うこと』という一冊に他ならない。
母のパン・ド・カンパーニュ/私の出自/造船大監・辰巳一のこと/私に流れる「辰巳」の血/先生運のいい私/英霊・藤野義太郎/映画『天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”』のこと/アイスバインとコッパ/宇宙への挨拶から一日は始まる/外国人から一本取る法/【特別収録対談】辰巳芳子×川瀬敏郎/学校給食を何とかしなきゃね/食に就いて――。
目次の章題を書き出せば右の通りで、これはほとんど毎月一度鎌倉通いをして聞いた順番のままだ。正確にいうと「私の出自」が最初で、「母のパン・ド・カンパーニュ」が二番目だったか。
花道家・川瀬敏郎氏との対談は、たまたまこれの原稿まとめも私がやったので、ぜひ収録すべしと主張し、「そうねぇ。川瀬先生とのお話、入れてもいいわねぇ」と辰巳芳子本人がオーケーしたものだ。
全十三章だから本来なら一年一カ月、十三回のテープ採りで本になるはずだったが、あと一息というところまで来て、聞書きまとめ係の私が病気になり、一年近く仕事が延びてしまった。辰巳芳子ご当人にも新潮社にも大きな迷惑をかけ、ひたすら平身低頭詫びるしかない。乞御海容。
しかし、弁解がましく一言いわせてもらえば、仕込みに一年かけ、それをもう一年熟成させることになった結果は、やはりそれだけのことがあったと裏方としては自負している。初校のゲラ刷りをチェックしながら、(こんな素晴らしい本の誕生に微力ながら参加できて、本当にオレは幸運だナ……)と、しみじみ思った。
この本の凄さは、波乱万丈の人生九十年を生き抜いた一人の女性の一代記ではなく、個人的な自伝の域を突き抜けて「生命の仕組み」の根源を私たちに説き明かし、だから食べるということにどれだけ真剣に向かい合わねばならないかを私たちに突きつけている、まさにそこにある。
毎朝、目覚めると起き出す前に、布団の中で一種の無重力状態みたいな感じで、宇宙と交信し、ゆっくり息を吸って「今日もよろしく」という。
そういうふうに一日を始めるという辰巳芳子が単なる料理研究家であるはずはなく、私にいわせれば「料理を切り口とする哲学者」である。毎日一回、『食に生きて』を読み返すたびにその思いを新たにし、(先生運がいいのはオレだ……)と思うのだ。
(さとう・りゅうすけ 文筆家)