書評・エッセイ

2015年4月号掲載

こんなにおかしい人たちだとは!

――ハンス=ヨアヒム・シェートリヒ
『ヴォルテール、ただいま参上!』(新潮クレスト・ブックス)

中島京子

対象書籍名:『ヴォルテール、ただいま参上!』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ハンス=ヨアヒム・シェートリヒ著/松永美穂訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590117-2

 ヴォルテールがおかしな人なんじゃないかな、というのは、うすうす感じていた。彼の小説『カンディード』を読んで、ぶっ飛んだ覚えがあったからだ。啓蒙思想の巨人がライブニッツの最善説に反論するために書いた哲学的作品と聞いていたのに、お尻を半分切り取られて食べられてしまったお婆さんが出てきて、とうとうと自分語りを繰り広げたりする。なんだかこう、型破りな書物だった。
 フリードリヒ二世に至っては、私の知識はすこぶる少なく、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの宿敵、といった断片的なことしか知らなかった。
 しかし、十八世紀ヨーロッパ史に詳しくないからといって、この小説が楽しめないということはまったくなかった。それどころか、こんなにも、史実しか並べていないような小説であるにもかかわらず、いつしか私はその淡々とした歴史叙述的な文体(それにときどき小説家らしいチャーミングな人物描写がまじる)にハマってしまい、気がつくと、腹を抱えて笑い転げていた。
 ヴォルテールこと、フランソワ・マリー・アルエは当時四十代。数々のスキャンダルのためにフランスに居られなくなり、ヴォルテールを尊敬するプロイセンの若き王、二十代半ばのフリードリヒ二世に招かれて隣国に滞在する。小説は徹底して史実に基づいており、フリードリヒがヴォルテールの自尊心を盛んに刺激して招聘しようとする前段に第一部、プロイセン滞在の蜜月時代を経て、仲違いするまでの数年を第二部に割いている。
 短い、変わった小説と言ってもいいと思う。何年何月何日に、誰がどこへ行って何をしたという記述の間を埋めるのは、多くの場合、書簡からの引用だ。二人の文通は有名で、なんと生涯に二百四十五通もの書簡を交わしたのだそうだ。ヴォルテールが愛人のシャトレ夫人に書き送ったものからの引用もある。フリードリヒへの、いわば建前のからむ手紙と、愛人(これがまた傑物)への、本音をぶちまける手紙との間には、おのずとヴォルテールという人物の真の姿が浮かび上がる。作家は実に巧みに引用をちりばめて、読者が人物のおもしろみに自ら気づくように仕掛ける。小説家が懇切丁寧に、この人はこういう人なんですよと解説してくれるような小説ではない。御年八十になろうとする老作家が、史料の中からおもしろいページを見つけ出し、つんつんと指差して、目配せとくすくす笑いを送ってくる。そんな雰囲気のある小説なのだ。
 崇高なる自由の信奉者であり、同時に凄まじい金銭への執着を見せるヴォルテールと、フランス新思想への憧れを抱きつつも専制君主の非情な顔を持ち、さらには男色の傾向もある複雑なプロイセン王。偉人二人がお互いに、互いの自尊心をくすぐり合っているうちはいいのだが、やはり反発し合うのが必然だったのだろう。面と向かって罵倒こそしないけれど、フリードリヒは友人に「余がヴォルテールを必要とするのは、せいぜいあと一年間だ。オレンジをぎゅうぎゅうに絞って、皮を捨てるようなものだ」と言い放ち、これを伝え聞いたヴォルテールは、頼まれていたフリードリヒのフランス語の添削について、「国王の汚れ物を洗う」と暴言を吐く。
 前半に見られる、ヴォルテールをめぐるシャトレ夫人との静かな心理的三角関係も興味深いが、何よりおかしかったのは、痔核で苦しむ側近に当てた、フリードリヒのドイツ語の手紙だ。国王は、フランス語で教育を受けていたため、自国の言葉で文章を書くのが下手くそだったらしい。それに比べれば「汚れ物」呼ばわりされたフランス語の文章は立派なものだったとか。ともかく、フランス語の教養のない側近のために、慣れない母国語で書いた手紙が、誤字だらけ、文法間違いだらけなのだそうだ。それでも側近を励まし思いやり医師と薬を都合するフリードリヒ。小学校低学年並みのドイツ語を日本語に置き換えるべく訳者が奮闘された結果出現した、「しゅっけつよくなる。だからなおるをまつ……」「またねつでた、きいてざんねんにおもた」「かみさまがまもてくださるように!」という拙い日本語が、どうにも笑いと涙を誘う。
 ああ、おかしい、しみじみ、おかしい。やはり小説が威力を発揮するのは、教科書に載らない真実を読者に提供するときなのだろう。
 またひとつ、とてつもなくおかしい小説を読んだ。そのことが本当にうれしい。

 (なかじま・きょうこ 作家)

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