書評

2015年4月号掲載

色川武大の「晩年」に年が近づいて改めて読む色川武大

――色川武大『友は野末に 九つの短篇』

坪内祐三

対象書籍名:『友は野末に 九つの短篇』
対象著者:色川武大
対象書籍ISBN:978-4-10-331105-8

 色川武大と阿佐田哲也は、特に色川武大は、私の大好きな作家で、現代作家で珍しく(というか例外的に)全集を揃えている。
 だから作品も繰り返し読んでいる。
 そして、読むたびに新たな感慨にふける。
 私は昔から作家の年齢問題に強い関心を持っていた。
「作家の年齢問題」というのは、こういうことだ。
 三十五歳になった時、私は芥川龍之介に追いついたのかと思った。
 四十歳は太宰治。
 四十五歳は三島由紀夫。
 そして五十歳が夏目漱石だ。
 つまり、今年五十七歳になる私は、もうずい分前に「漱石越え」してしまったのだ。
 そういった「文豪」たちが次々と私の年下になっていっても(芥川なんて二十歳以上若い)、読者である私と彼らとの関係はあまり変りない。
 何故なら彼らは私の同時代の作家ではないからだ(三島由紀夫が亡くなった時私は小学校六年生でその衝撃的な死は生々しく憶えているがまだ彼の読者ではなかった)。
 それに対して色川武大は私の同時代の作家だ。
 一九七七年四月に刊行された『怪しい来客簿』は新刊で入手したし、やはり同年から『海』で始まった「生家へ」も愛読した(と書くとウソが混じる――初出ではなく七九年七月に刊行された単行本で愛読したのだ)。
 一九八七年九月に『東京人』の編集者になって、色川さんの原稿を頂戴した(短い原稿で直接お目にかかるのは図々しい感じがしたので電話だけのやり取りだったが)。
『東京人』でも何か連載を、と私なりに仕掛けを考えていたのだが、色川さんは一九八九年三月に岩手県一関市に転居し、同年四月十日、亡くなられた。
 色川さんの誕生日は三月二十八日だから、ちょうど六十歳の時だ。
 先にも述べたように私は今年(五月八日に)五十七歳になる。
 つまり色川武大が亡くなった年に近づきつつある。
 これは不思議な気持ちだ。
 愛読者であるから私は色川武大の晩年(といっても五十代だ)の作品も繰り返し読んでいる。
 昔は落ち着いて読めたのだが、今は不安な気持ちにさせる。
 この、単行本未収録作を集めた作品集の巻頭に載っている短篇「友は野末に」はこのように書き始められる。

 某日、小さなホテルにこもって仕事をしているとき、家からの電話でまた一人の友の死を知らされた。五十をすぎるとそういうことが頻繁になってきて不思議はないし、自分の命だって風前の灯なのだから、他人が死のうと自分が死のうと日常茶飯のことといえなくもない。

 初出は『オール讀物』昭和五十八年三月号だから、色川武大五十三歳の時の作品だ。
 少年時代の旧友との思い出が回想される。
 その旧友は別の学校に進み、戦後の混乱の中で関係がとだえた。
 その彼から三十年振りの来信があり、今は東北に住む彼と再会することになったが、その前に彼はあっけなく死んでしまった。
「多町の芍薬」はその戦後の混乱期における、世代を越えた、奇妙だが濃厚な人間関係が描かれる。初出は『別册文藝春秋』昭和六十年一月だというから今の私の年齢に近い。
 すなわち私が、三十数年前の大学生時代を振り返る距離感だ。
 しかし私にはそれが同じ距離だと思えない。
 私は、いや私たちは、とても薄い時代を生きてきたのだ。色川武大の「晩年」の作品を今改めて読んで行くと、そのことを痛感し、私を不安な気持ちにさせる。
 ところで、この作品集の目玉とも言えるのは「蛇」だ。未完とはいえ素晴らしい作品だが、注目してもらいたいのはその初出。
『文学者』一九七一年二月号。すなわち色川武大が阿佐田哲也だった時代の純文学作品なのだ。
 靖国神社小説としても優れたこの作品を今まで知らないでいたことは、『靖国』の著者として少しくやしい。

 (つぼうち・ゆうぞう 評論家)

最新の書評

ページの先頭へ