対談・鼎談
2015年4月号掲載
『芸人という生きもの』刊行記念対談
私版「なつかしい芸人たち」楽屋噺
吉川潮 × 柳亭市馬
対象書籍名:『芸人という生きもの』(新潮選書)
対象著者:吉川潮
対象書籍ISBN:978-4-10-603765-8
吉川 僕が長年高座を観てきたり、親しくお付き合いして来た芸人で、特に好きな人たちを列伝風に描いた『芸人という生きもの』(新潮選書)を書下しで出すんです。「将来『名人』と呼ばれる落語家が居るとしたら、まず第一に柳亭市馬である」とも書きましたが、川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)も取り上げているのだから、好きと言ってもいろいろある(笑)。
市馬 いや、川柳(せんりゅう)師匠、お元気で何よりですよ(笑)。
吉川 この本で取り上げた三十人の内、亡くなった方が二十人もいて愕然としたんです。僕が演芸評論を書き始めて四十年たつのだから、仕方ないのかもしれませんが。
市馬 あたしが入門した頃は(一九八〇年)、ご本に出てくる皆さん、とてもお元気でした。
吉川 現役の方は勿論、亡くなった方でも、落語家は語り継がれるんですよ。今回書いた故人の落語家たち、市馬さんの師匠の小さん、談志、志ん朝、柳朝、三木助、みんなそうですよね。談志師匠の弟子で若死にした文都を書いたのは、少しでも忘れられないようにという思いがありました。それから、この本では勝新や小沢昭一さんといった俳優も取り上げましたが、彼らには映画が残ります。でも、色物の人たちは一代限りのケースも多いし、映像や音源もなかなか残らない。この本に登場する白山雅一さん、波多野栄一さん、早野凡平さん、ショパン猪狩さんなどと接したのは、もう市馬さんの世代で最後じゃないですか?
市馬 そうでしょうね。今回お書きになっている色物の先生方は、ほとんど直接に存じ上げています。
吉川 百面相の波多野さんが国定忠治をやる時の「御用だ!」はやった?
市馬 やりましたよ。前座は尻っぱしょりして、ハタキを十手替わりにして、捕り方の役をやんなくちゃいけない。波多野先生が舞台で着替えてる最中に、後ろからハタキでつつくと、「まだ早い」なんか言われて(笑)。カウボーイをやられる時は、楽屋からインディアンの雄叫びを上げました。そうそう、忠治に斬られるのを巧くやると、先生機嫌がいいんです。ウケないと機嫌が悪い(笑)。
吉川 実際の高座を観てない読者にはなかなか画が浮かびづらいと思うんだけど、波多野さんという老芸人が、いろいろ扮装をして見せるんです。一万円札が福澤諭吉になってからもずっと、「縁起がいいところで一万円札の」と言って聖徳太子をやり続けたし、チャイナドレスを着て姑娘(クーニャン)にもなる。実に他愛ない芸なんだけど、寄席では結構ウケてましたよね。
市馬 特に浅草ではウケましたねえ。でも、先生は上野(鈴本演芸場)に出たかったんですよ。しかし、自分から席亭には言いにくい。小さん(落語協会)会長を通して言って貰おうにも、うちの師匠にも直接は言いにくい。だから、師匠の息子の三語楼(現・小さん)師匠に頼んでましたよ。「おれに言われても」って、三語楼師匠が困ってました(笑)。
吉川 席亭さんの好みは仕方がないことだからね。でも波多野先生、池袋でもウケてましたよ。あんな小汚い寄席は(建て替えて綺麗になりましたが)イヤだったかもしれないけど、ある時期の池袋と言えば、波多野先生と川柳川柳ですよ。でも、川柳はウケない時は、客をよく怒ってた。
市馬 未だにそうですよ(笑)。
吉川 あそこは畳敷きだったから、一番前に座った客の靴下が臭いって怒ってたことがあった(笑)。前座で働いてた頃、初席(正月)で酔払った川柳を高座から引き摺り下ろしたことある?
市馬 それは初席に限りません。普段でもありがちなことで。最初は袖から、あたしたち前座が「そろそろ」とか言ってるんです。だけど川柳師匠は「ええ、うう、もう下りるよ」って言うだけで、延々と高座でぐだぐだ言っている。で、後に上がる偉い人たちから、「ダメだ、もう引き摺り下ろせ」と指示が来るんです。今は、さすがに川柳師匠もそんなことはしなくなりましたけどね。
吉川 小さん師匠が生きている頃、目白(小さん宅)で新年会をやってから初席に出てたでしょう。その時は確実に酔払ってたけど、師匠も亡くなって、新年会もやらなくなったしね。ある時は、「酔払って面白いこと言うっていうから来たのに、全然酔ってねえじゃねえか」と客から文句が出た(笑)。ああいう芸人も絶滅危惧種ですが、面倒を見させられる昔の前座は今より大変でしたよね。
市馬 大変は大変でしたけど、面白かったですよ。いろんな意味で、当時はまだ血が通っていましたね。
吉川 市馬さんが特に思い出に残っている色物の芸人さんって、どなたですか?
市馬 いろいろいらっしゃるけど、先生のご本に出てない方を挙げると、例えば東富士夫先生とか。
吉川 曲芸の、樽回しの。たっつけ袴をはいて、一升瓶を頭に乗せて逆立ちして、無言のまま足で樽を回していましたねえ。
市馬 千秋楽の日は、例えば浅草から新宿へという具合に、次の寄席へ樽を運ぶのがあたしの役目でした。気に入ってくれたというか、あたしが小さんの弟子で、富士夫先生は小さんの内輪でしたし、樽なんて担いでいくのはナリの大きい前座じゃないといけないんで、ずいぶん可愛がって貰ったんです。〔セキネ〕の肉まんなんか買ってくれて、前座だから、そういうのがとても嬉しいんですよ。で、樽を担いでまだ芸協(落語芸術協会)の人たちがいる楽屋へ入っていくんですが、これは落語協会の前座にはなかなかキマリの悪いものでしたね。親しく声をかけてくれたのは小柳枝師匠ぐらい、ってまだ覚えてる(笑)。
吉川 夫婦漫才の三球・照代には間に合ってます?
市馬 勿論、勿論。楽屋で夫婦二人、仲がいいんですよ。楽屋でものを食べるって、仲間内ではあまりしないんです。食べる時は前座にもちょっと買って来る。あの二人はよくハンバーガーかなんか仲良く食べてましたけど、絶対、前座に買って来ることはしない。それを何かチマチマやられると、「あ、セコだな」となるんだけど、堂々とラブラブで食べられると、こう言っちゃ失礼なんでしょうけど、本当に微笑ましかったですね。勢朝さんなんか、照代姉さんの着替えるとこに居合わせたら、ブラジャーのヒモが見えちゃって、つい催したという(笑)。
吉川 萌えた、と勢朝本人から聞きました(笑)。照代さん、きれいだったしね。今も色物は数はいるんだけど……。
市馬 今は楽屋もどうも杓子定規になってしまっていると言いますかね。さっきの「高座から下ろせ」じゃないけど、時間なんかきっちり計ってね。寄席なんだから、トリまでの全体で合えばいいじゃないかと思うんだけど、いろいろ融通の利かないことになりつつはありますね。
吉川 色物がいなければ寄席の番組は成り立たないのだから、もっと面白い色物を集めてもいいし、もっと敬意を払っていいと思うんだけど、落語よりも下に見られがちですよね。今の正楽さん(紙切り)が言っていましたよ、「ものの分らない人ほど、色物を下に見るんです」って。
市馬 その通りですね。吉川先生の今度のご本でも、噺家や俳優同様に色物の先生方を取り上げられて……でも、本当におかしな先生はいっぱいいましたね。
吉川 せっかくだから落語家の話もすると(笑)、市馬さんは小さん師匠に〈剣道枠〉で入門したという伝説があります。あの人間国宝は目白の自宅に道場を作ったくらい、剣道に熱をあげていたから。
市馬 あたしは大分の高校で剣道をやってまして、剣道の先生の繋がりで師匠に入門できたんです。
吉川 落語じゃなくて、剣道の稽古ばかりだったというのはホント?
市馬 そうですよ。最初は、「剣道やる奴だし」と少しは目をかけてくれる気もあったようなんです。で、「『道灌』(代表的な前座噺)はおれが教えてやるから」と言ってくれてたんですが、すぐに面倒臭くなったのか、あたしが二三回つついてみても、「ああ? 小里(こり)んに習え、小里んに」。でも、ついに「稽古するぞ」と言われたから、「『道灌』だ!」と思って、浴衣に着替えて待ってたら、師匠が剣道の防具まで付けて現れて、「何してやがる、いつまでそんなみっともない恰好してやがんだ」。正確にはあの時、「薄みっともない恰好」と師匠は言った(笑)。
吉川 江戸っ子の場合、「薄」が付くと否定の意味が倍になるからね(笑)。馬鹿野郎より薄馬鹿野郎の方がきつい。
市馬 「おれが稽古と言ったら、剣道の稽古と決まっているだろう!」。
吉川 決まってないよねえ(笑)。小さん師匠の剣道は強いんですか?
市馬 強い。あたしが入門した時で六十五歳でしたが、こっちは上背もあるからと、飛んで行っても、間がしっかりしているので打ち込めないんです。こっちがくたぶれるだけ。そこへ逆に打ち込まれちゃう。高段者でもあの歳になると、そんなに動(いご)かないものですが、師匠は動いて、どんどん来る。突きがお好きで、下手に突きをやられると痛いんですが、師匠のは痛くない。
吉川 今度の本に書いたことだけど、あなたが二つ目の時に演じた「時そば」を見て、小さんの間合いそのもので、実に本寸法の芸だなあと感心したことがあります。あれは稽古をつけてもらったんじゃなくて――。
市馬 師匠の高座を袖で見たりして、盗んだんです。蕎麦を何回啜(すす)るか、何回噛むか、数えたこともあります。すごいのは、わんわんウケる地方の大人数(おおびと)のホールでも、東京の普通の寄席でも、回数が変わらないんですよ。
吉川 ああ、それは実に〈柳家小さん〉だね。特に地方だと蕎麦を啜るところで中手(なかて)(拍手)が来るでしょ?
市馬 来るんです。でも変わらない。あれはいまだに、あたしには真似できないですね。ウケちゃうと、つい多めに啜ったり、不味い蕎麦を食う時も、臭く長めにやってしまう。そう言えば、今度のご本に三木助兄(アニ)さんの章がありましたけど、鈴本で師匠の「時そば」を上手(かみて)の袖から見てたことがあったんです。例によって回数を数えたり、師匠と一緒にやっているつもりになって、こんな顔をして見ていたら、下手側の袖に兄さんがいたんですね。後で、「同じ顔してさ。師匠の高座より、お前の顔見てる方がよっぽど面白かった」と冷やかされましたね。
吉川 三木助は間違っても数えたりしないタイプだったからね。
市馬 江戸っ子は研究しなくていいんです。田舎者は数えたりするしか、ほかに芸がないんですよ。ホールでも寄席でも同じやり方なのに、なぜあんなにウケるのか。いくら師匠が有名だからと言っても、それだけではないみたいな気がする。せめて蕎麦を啜る回数だけでも真似しよう、と当時は思ってたんでしょうかね。
吉川 市馬さんが九三年に真打になってからしばらくの間を、僕は今度の本で「安定期、というより伸び悩みの時期」と書きました。それを吹っ切れたのが小朝の『苦悩する落語』(二〇〇〇年刊)という本だったというのは面白いですね。
市馬 あそこに書いてあるダメな落語家の例は全て自分に当てはまると思ったんです。真打になったはいいけど、やがてイキのいい後輩たち、喬太郎とかたい平とか三太楼(現・遊雀)なんかが出てきて、寄席を沸し始めた。「置いて行かれちゃうぞ」と思ったんです。そこで「片棒」など古典落語にちょっと一節(ひとふし)、歌謡曲を入れたりするのを始めたんです。
吉川 「掛け取り」で三橋美智也の好きな旦那を出したりね(笑)。その頃から市馬さんは落語家の真打披露パーティの余興などで、三波春夫の長篇歌謡浪曲「俵星玄蕃」を歌うようになりました。これは実に見事な隠し芸で、志ん朝師匠が料理や飲み物に見向きもせずに十何分、食い入るように見ていたとか。
市馬 別のパーティですが、歌丸師匠は歌がお嫌いらしいんですけど、あたしが歌い始めたら、パッと舞台を振り向いて見入ってくれたのだそうです。昇太に言わせると、「あんなに動きの機敏な歌丸師匠は初めて見た」と(笑)。
吉川 たい平の真打披露の時は、大感心した玉置宏さんが壇上に上がって「実に結構、ほどほどの臭さで本家よりいい」と絶讃した。まだ本家ご存命の頃で、「いいのかなあ」と思ったよ(笑)。その後、市馬さんは談志師匠にも懐メロをきっかけに高い評価を受け、さらに小三治師匠に買われて協会副会長に、そして昨年からは会長に就任しました。具体的な方針をよく聞かれると思うのですが――。
市馬 当り前のことですが、お客が喜ぶことをやるのが第一、噺家同士の内々のことは二の次三の次だと。例えば、落語協会、立川流、円楽党、芸術協会の大合併みたいな話もあって、大合併自体がいいとは限らないと思いますが、年に十日だけでも、鈴本でも末広亭でもいいから、オールスターみたいな〈夢の寄席〉ができないかなあとか、そんな考えを持っています。吉川先生の本を読んだってわかるじゃないですか、観る立場からすれば、落語協会も芸術協会もない、落語家も色物もない、楽しませてくれよ、ということですもんね。
吉川 全く同感です。そのためにも、市馬会長、正蔵(林家)副会長の長期政権(笑)を期待しています。
(浅草ビューホテル「歌留多」にて)
(りゅうてい・いちば 落語家)
(よしかわ・うしお 作家)