書評
2015年5月号掲載
『女たち三百人の裏切りの書』刊行記念特集
壮大さを超える物語
――古川日出男『女たち三百人の裏切りの書』
対象書籍名:『女たち三百人の裏切りの書』
対象著者:古川日出男
対象書籍ISBN:978-4-10-306076-5
「護摩(ごま)は邸内いっぱいに立ち籠めている。焚き入れられた芥子(けし)が臭う。それを三人の女がそれぞれに嗅いでいる。一人は、褥(しとね)にいる。一人は、間仕切りの几帳(きちょう)の向こう側にきちんと膝を揃えて座している。一人はしきりと立ち働いている。だが三人とも嗅いでいる」
というのが、この本の冒頭の文章である。さりげなく始まるように思えるけれど、意味以外のいくつかの示唆がなされているのが、まず興味深い。
「芥子(けし)が臭う」とある。「匂う」ではない。だから、ここで芥子が焚かれている、そのかおりが、不穏な何かを象徴していることが、まずわかる。それから、「一人は、褥(しとね)にいる」とある。褥、という言葉を使う状況は、いったいどんなものか。現代ではないだろう。と思っていると、すぐに「几帳(きちょう)」がでてくる。几帳のある部屋。それはたぶん、ずいぶんと昔だ。平安時代か? そして、そこは公家の邸か? 女が三人いて、寝具に横たわっている者を、もう一人の女が几帳越しに見守っているとすれば、やはり貴族の邸なのではないか。それならば、雅な雰囲気がこれから醸成されてゆくのだろうか。と待ちかまえていると、突然「だが三人とも嗅いでいる」という、文章としてはまったく妙なところはないのに、とても妙な印象を与える表現がでてくる。
いったいこの小説は何なんだ?! と、この冒頭の三行だけで、好奇心をひどく刺激されるのである。
読んでゆくと、また仰天する。几帳の周囲にいる三人の女のうち、いちばん若い「うすき」には、何かが憑いている。それはいったい何なのかといえば、
「越後の守(かみ)の藤原為時(ふじわらのためとき)が女(むすめ)、また右衛門(うえもん)の権佐(ごんのすけ)である藤原宣孝(のぶたか)が妻、そして大弐(だいに)の三位(さんみ)こと賢子(けんし)の母である、私すなわち藤式部(とうのしきぶ)。また世人の呼ぶところ、――紫式部」
つまり、「うすき」という少女に憑いたのは紫式部だったのだ。世に流布している宇治十帖の物語が偽物であるため、ここに正しい物語を語ると、紫式部は宣言する。
では、本書は、新しい宇治十帖を描こうとしたものなのかといえば、いやいや、そんな一筋縄でゆくような展開を、作者は決して許さない。奥州藤原氏の黄金をもちいて何かを企む、「まつろわぬ」武者たち。瀬戸内海の海賊を統べる、異相の現人神「由見丸」。山陰のはるか沖にある島に封じられた蝦夷の子孫たち。そして、平氏の郎党、源氏のもののふ。平安の世をかき乱さん支配せんとするいくつもの集団、男たちの武装集団が、語られる新たな宇治十帖の隙を、跋扈しはじめる。はじめは、どんなふうにかれらがつながりあってゆくのか、見当もつかなかったのに、語られる宇治十帖と宇治十帖の物語の外にいるはずのかれらは、複雑な縒りの糸につらなる珠のように、次第につながりあいかさなりあってゆく。
壮大、という言葉を使いそうになるのだけれど、それだけではこぼれ落ちるものが、この小説にはある。明瞭さを保ちながら粘りに粘る、独特の文体。物語を語るためのふろしきを広げたように見えて、その実ふろしきは何かを包むためにていねいにたたまれているさま。休むことなく繰り出される表現の妙。いくつもの声色が同時に存在するように感じられる、彩なす小説のヴォイス。怒濤のように書き進められているにもかかわらず、走りすぎない抑制。
物語に言葉が奉仕しているわけでもなく、反対に言葉に物語が奉仕しているのでもない、その両方が渾然一体となって疾駆してゆくところに、この小説の何よりの快楽がある。古川日出男、という小説家の作品を、いくつか読んできたけれど、いったいこの作者はどこまで行ってしまうのだろうかと、いつも不安になる。そして、不安にさせられることこそが、小説を読む醍醐味なのではないだろうか?
(かわかみ・ひろみ 作家)