書評
2015年5月号掲載
破壊して創造している小説
――筒井康隆『世界はゴ冗談』
対象書籍名:『世界はゴ冗談』
対象著者:筒井康隆
対象書籍ISBN:978-4-10-117155-5
大変だ、大変だ。あの筒井康隆が新しい短編集を組んでしまったぞ。あの、という言葉をつけて語りたくなる作家はそう多くはいないのだが、やっぱり筒井康隆は、あの、と表現したくなる作家で、それはとてつもない実験というか、小説破壊をどかんどかんと仕掛けてくるからで、こんな作家はほかにはいないのだ。並の小説というものを破壊してくるのだが、ただ破壊するだけではなく、その結果どこにもないような小説を創造しているのだからすごいと思わなければならない。破壊によってものすごいものを創造してしまう力業には目を見張るしかない。
きけば筒井康隆は八十歳になっているというではないか。八十歳でこの悪夢のような破壊と創造をしてしまうとはまさに怪物のようなエネルギッシュさであって、思わず、ついていけん、という言葉が頭に浮かびかけるが、いかんいかん、そこをついていくところに筒井ワールドに巻き込まれる文学的快感があるのだ。
たとえば「ペニスに命中」という作品の場合、どうしてこういう題名なのかはさっぱりわからんのだが、とりあえず、ははんこれは認知症の老人が出鱈目をやる小説だなとあたりをつけるのだが、その出鱈目が度を過ぎていてついていくのに読者は必死にならなくてはいけない。なんでこの人「源氏物語」について講演しているのか、しかしこの講演の内容は面白いなと思っているといきなりピストルをぶっぱなす。最後には国会議事堂へ行って総理大臣をぶっ殺そうとするのも激烈だが、それよりもこの小説中の「映画ではない。小説だ」というセリフにはぶっ飛ばされた。それは確かにそうですけど、そんなことが書いてある小説はないぜ、普通。
「不在」という作品は、男が生まれなくなって女だけで社会をやっている小説、ということで、どうもそれが大地震後の世界とわかってくるのだが、その大ワクがふわふわとゆらいでいて、意識が実はあるのに植物人間になっている男がなぜまったく老化しないのかの話には男が出てくるのだ。そして、マラソンで消えてしまってゴールインしない女性の話がどうしてからんでくるのかさっぱりデンドロカカリヤなところもすごい。
「教授の戦利品」は話の内容はよくわかる。蛇についてのむちゃくちゃ話だが、このむちゃくちゃをやるには体力がいるぞー、八十歳でよくやるものだ。
「アニメ的リアリズム」は悪夢のような出鱈目だが、バーを出て、ハンドルがぐにゃぐにゃの車で暴走していて、いきなりまたバーの中に戻ってくる話の展開にはびっくりする。
「小説に関する夢十一夜」は小説についての夢を並べたものだが、本当に作者はこういう夢を見ているんじゃないかと思えてしまうところがすごい。こんな文学的刺激に満ちた夢を、夢だからこその自由さで書いていて、これは文学論ではないか、とわかってくるところがおとろしい。
「三字熟語の奇」は、三字熟語を並べてみようと思いたち、それを二千三百五十二個も並べて、こんな小説筒井康隆以外の誰が書くものか。この三字熟語の後半二百七十四個は「怪岸線」のような出鱈目である。
「世界はゴ冗談」はゴ冗談のたたみかけであるが、これ一作に短編小説三つぐらいのアイデアが入っていて、贅沢である。王子ダニエルの話の落とし方にはまいった。
「奔馬菌」の四時半を征伐しに行く話に首をかしげていると、この小説はメタフィクションにもなっていて、作者が「その通り。おれは書けなくなった」と書いてしまうことの破壊力には同じ作家としてゾッとした。これこそが破壊して創造するという究極の小説なのではあるまいか。
「メタパラの七・五人」にはいちばんぶっ飛ばされた。死者の四十九日の法要に、その死者が参加してしゃべっているから驚くのではない。筒井小説ならそのぐらいのことは平気でおこるのだから。画家が幼い娘の絵を描いてその絵本がよく売れた、という話が普通に語られているうちに、登場人物が突然、読者に直接話しかけてくるから驚くのだ。そして更には作者が出てきてしゃべりだし、パラフィクションを教えてくれる。さては七・五人のうちの〇・五人は読者のことだったのか。そこまでやるか、とたまげるし、おそれいる。
「附・ウクライナ幻想」でようやく筒井康隆の地声がきけてホッとする。それで、かえってフィクションの暴走ぶりがわかって、こんな小説を八十歳で書くとは怪物だよなあと思ってしまうのである。
(しみず・よしのり 作家)