書評

2015年5月号掲載

日本仏教界を揺るがす大事件

――魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』

佐々木閑

対象書籍名:『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』
対象著者:魚川祐司
対象書籍ISBN:978-4-10-339171-5

 ブッダの教えを分かりやすく解説する本である。このように言うと「ああ、そうですか。よくある類の仏教書ですね」と言われそうだが、実はそんな呑気に構えていられる話ではないのである。
 本屋の仏教書コーナーに行けば、立派なタイトルの本がずらりと並んでいて、こういったものを手当たり次第に読めば、ブッダの教えなど苦もなく理解できるような気になってくる。しかしそれは大いなる錯覚である。実は、ブッダの教えを「本当に正しく解説している本」などほとんどないのである。それにはちゃんとした理由がある。
 ご存じの方も多いと思うが、仏教は二五〇〇年の歴史の中で大きく変容し、本来のブッダの教えとは似ても似つかない新たな仏教運動として大乗仏教が起こってきた。その教義はブッダの教えとは全く違っている。それが中国で流行し、そのまま日本に入ってきて、そのため日本は完全な大乗仏教国となった。つまり日本の僧侶は皆、大乗仏教徒なのである。
「仏教といえば大乗仏教」という状態が江戸時代まで続いた。ブッダの本来の教えは「小乗仏教」と蔑まれ、誰も相手にしなかった。明治になり、日本人の世界観が急激に晴れ上がって、スリランカや東南アジア諸国には大乗仏教とは別の、しかも大乗仏教よりも古い、本来の仏教が伝わっていることが初めて理解され、それこそが今まで蔑んできた小乗仏教そのものだということも分かった。
 しかしだからといって、大乗仏教を捨ててブッダの教えに鞍替えしよう、などという動きは起こらなかった。既得権の問題とか、長年の刷り込みとか、いろいろ要因はあるが、ともかく、「小乗仏教の方が古いと言っても、教えとしては大乗の方が優れている」という論理が腰を下ろし、日本における大乗優位はいささかも揺るがなかったのである。
 もちろん、こういった状況を好ましく思わず、おおもとのブッダの教えを日本にも広めたいと願う人たちもいた。特に、仏教を学問的に研究する仏教学者の中からそういった人がポツポツ現れるようになった。例えば友松円諦、増谷文雄、中村元といった人たちである。
 しかし、こういった人たちも、「大乗仏教あってのブッダの教え」という姿勢からは抜けきれなかった。「ブッダの教えはそれ自体、一個の完結した独自の体系である。それに対して大乗仏教は、ブッダとは関係のない別個の宗教だ」というところまでは突き抜けることができなかったのである。
 このような状況は、20世紀の終わり頃まで続いた。そして近年、スリランカやミャンマーから、現地の仏教を直説伝える人たちが来日するようになり、ようやくブッダの教えを丸ごと生で知る機会も増えてきた。この段階でブッダの教えは、「ほぼ」正しく日本に入った、ということが言える。しかしこういった人たちは、「日本にブッダの教えを広め、独自の教団を確立したい」という教主的側面を持っているため、自己主張による敵対者の排除という態度が前面に出る。それが完全な客観性を損ない、時として感情的議論を誘発する。だからあくまで「ほぼ」なのである。
 これが、魚川氏の本が出版されるまでの状況である。そして2015年になって、この『仏教思想のゼロポイント』が、「ブッダの教えを遺漏なく、冷静かつ客観的に、分かりやすい言葉で解説した本」として登場したというわけである。つまりこの本は、現在の日本における仏教解説書のトップランナーなのである。だから「よくある類の仏教書」などという大間違いの先入観を持ってもらっては困る。私がこの本の紹介を引き受けたのも、この本の出版がいかに重大な意味を持つ事件であるかをなんとかお伝えしたいという一心からである。
 私は著者の魚川氏と、タイの山奥にあるお寺でじっくり三日ほど話し込んだことがある。その時、「ああこの人はブッダの教えを身体で感じ取っている。頼りになる仏教者だ」と感じた。私が長年の文献研究によって探り当てた仏教の本質とピタリと一致する視点を持っている人だと思った。私にとっては実に心強い同朋である。
 その魚川氏の見事なデビュー作。日本仏教に馴染んだ人にとっては驚きの連続であろう。甘っちょろい気休めの道徳話など木っ端みじんである。本来の仏教が、どれほど獰猛な知の産物であるかをたっぷり味わっていただきたい。
 ここではあえて本の中身には触れなかった。読み始めれば引き込まれるに決まっているのであるから、余計なおせっかいは不要である。現在望み得る最高の解説者による、最先端の仏教書、どうぞお読み下さい。

 (ささき・しずか 仏教学者)

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