書評・エッセイ

2015年6月号掲載

『私の息子はサルだった』刊行記念特集

母の時間、子の時間

――佐野洋子『私の息子はサルだった』

角田光代

対象書籍名:『私の息子はサルだった』
対象著者:佐野洋子
対象書籍ISBN:978-4-10-135416-3

 子どもが大人になるのには、途方もなく時間がかかる。二十四時間の一日が三百六十数回くりかえされてようやく一年。しかもずいぶん長いこと、子どもはひとりで生きることができない。ある時期、べったりとだれかに面倒を見てもらい、べったりと世話してもらい、それでようやく大人になる。大人になると、三百六十数日を二十回も三十回もくりかえしてきたことを、忘れてしまう。その一日一日、だれとどんなふうに過ごしたのかなんて忘れてしまう。印象深いことだけが、印象深く残る。ふつうの日なんて、ないも同然になる。
 この本に描かれているのは、ゆっくり成長していく子どもを一日一日見つめる母の時間と、一日なんてないも同然の子どもの時間、ふたつの時間だ。子どもはたぶん、成長したときには覚えていないだろう。こんなふうに母に見つめられ、何に夢中になって何に傷ついて何を大切にしていたか。母が書きとめた、ささやかながら完璧な幸福は、子どもにはふつうすぎて、記憶する価値すらないのである。
 ちいさな男の子が、家という小宇宙からもっと広い世界に出ていく。友だちができる。好きな子ができる。仲間ができる。馬鹿みたいなことを言ったりやったりしてふざけている。それを見つめる母親はきっと、ああ馬鹿だなあと思っているだろう。けれども私は、その母の視線のなかに畏敬が含まれていると感じる。母と娘、母と息子という組み合わせは、「母と子」とひとくくりにできない違いがあると思う。母と娘の場合は、おそらくもう少し距離感が近くなる。娘が幼いころはとくに、母親の娘を見る目線には分身を見るような近しさが混じるのではないか。けれどこの作品での母親は、自分とはまったく異なるもの、理解を超えたものとして息子を見、その差異と意味不明さを尊く感じている。読んでいてそう思う。それをこの作家はたとえば猿と表現する。ただ呆れているのではない、驚異と敬意を持って、そう書くのである。
 そうして母親は、息子の好きな女の子が遊びにきた日、息子のある瞬間を目撃する。そのとき母親は、愛も憎悪もまだ知らない幼い息子の、いちばんやわらかい部分に触れる。これはもしかして、ケンという子の本質なのかもしれない。思いもかけず本質に触れてしまった母親は、もしかしたら、一生かけてこの本質を守ってやらねばならぬと無意識に覚悟したのかもしれない。もちろんそんな瞬間のことも、子どもが覚えているはずがない。
 やがて子どもは成長し、母親を疎んじ、あんまり口をきかなくなる。このころから子どもはいろいろ記憶する。いろんなことが当たり前ではなくなるからだ。幸福も、不幸も。母を「うざい」と思いはじめることも、また、それまでとの「ふつう」とは異なるから、記憶する。皮肉にも、面倒を見てくれて、話を聞いてくれて、守ってくれた母の記憶は日々に紛れて無いのに、うざくて、説教くさくて、わかってくれない母が、最初の記憶のようにして子どもに残る。そんな子どもをも、母は黙って見つめている。この二つの時間は交わることがない。この二者が他人同士だったらいつか交わるかもしれない。子どもが親になったとき、ようやく親の時間を理解するけれど、それはかつての母の時間とは同じではない。またべつの、子を見る親の時間である。
 この本に流れる二つの時間の両方に身を浸しながら、私はかつて自分の持っていたまったき幸福を知った。それは、あまりにふつうすぎて記憶にも残っていない一日一日だ。何気なくこぼした子どもながらの一言も、聞き漏らさなかった母親ながらの耳だ。
 幼い子どもの、たった一日のある瞬間を、母親はずっと忘れなかった。えらくならなくていい、お金持ちにならなくていい、あなたの持っているいちばんきれいなものを、どうか持ったままでいて。このささやかな思いは、親が子どもに手渡すことのできるいちばん尊いものではないだろうか。佐野洋子は、今ここにいなくても、こんなにもうつくしいものをまだ私たちに見せてくれる。

 (かくた・みつよ 作家)

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