書評
2015年6月号掲載
「熱血」の核にあるもの
――山田詠美『時計じかけの熱血ポンちゃん』
対象書籍名:『時計じかけの熱血ポンちゃん』
対象著者:山田詠美
対象書籍ISBN:978-4-10-366816-9
このたびの『時計じかけの熱血ポンちゃん』を読むとき、私が膝を打つのは山田詠美の怒りのありかたである。もちろん、「熱血ポンちゃん」シリーズは音楽、映画、料理、読書、恋愛……心惹かれる燦めきがたっぷり、夕暮れどきにジントニックなど片手にしながらにやにや笑いをふんだんに味わわせてくれる日常風雲録だ。第一篇の展開からして、スタンリー・キューブリック→剛力彩芽と杉村太蔵→安部譲二→夫→矢沢永吉→赤坂MUGENでのアフリカ人を巡るエピソード、そして最後は、永ちゃんファンが愛するラーメンに着地。この濃い流れをキメられるのは、ほかの誰を以てしても不可能だ。かちりと歯に当たる美学が仕込まれ、悪戯に触ると怪我をする。
さて、怒り、についてである。いまさらながらに納得するのだが、ポンちゃんの「熱血」の核には、沸々と滾る怒りの存在がある。対する相手は森羅万象さまざまだ。アンチエイジングという価値観に一瞥をくれて釘を刺し、昨今の「やんちゃ」という物言いに込められた誤魔化しを見逃さず、蝶と蛾を憎んで敵に回し、休日の食品売り場で困惑するおじさんに引導を渡す。もちろん、怒りと笑いと哀切はメビウスの輪のごとくひと繋がりであることは、小説家は百も承知。微苦笑の余地を残しておく怒り芸にも、ポンちゃんならではの美学がある。
しかし、ここぞというとき打ち込む楔は、鋭く、重い。梅雨どきの某日。中央線の車内で奇怪な音の出どころを探ると、スマートフォンの操作で両手が塞がった若い女がスポーツドリンクのパックに吸いつき、中身をチューチュー吸い込む奇怪な姿。ポンちゃんの怒るまいことか。しかし、その怒りはマナー違反に対して向けられるのではない。すっとこどっこいな女を相手にしつつ、怒りの本質を正面切って解読してみせるくだりは、本書の白眉ともいうべき箇所である。少し長くなるが、引用してみたい。
「社会に憤る人々のほとんどは、義憤の『義』に我身を預けて、自分独自の言葉を獲得する努力をさぼっている。そのことに対して無頓着でいると、怒りの根拠はどんどん信憑性を失って行くと思うのだが。/で、私は、それを回避するために、世界に点在する怒りの中で深く共感するものを選び、自分に引き寄せて矮小化する訳よ。皆が怒っている、のではなく、このおれさま(この場合、自己責任で不遜上等)が怒っているのであーる、と自身に表明して自覚を促し、勘違いを正すのね。大義を利用してはいかんよ、と。案外、人は大義という名目に惑わされているものだよ」(「のんべんだらりと怒る梅雨」)
このまっとうさに、私は心動かされる者だ。「案外、人は大義という名目に惑わされているものだよ」。すっぱり言い切る一文に、山田詠美の洞察と責任の取り方が表し尽くされている。怒りはもとより、あらゆる感情は、切れば血の滲む個人の存在表明であってこそ意味をなすという徹底したスタンス。しかも、個人に必要以上の権利や価値をあたえず、むしろ矮小化、不遜といった言葉をあてがうあたり、鞭にしなりを加える周到さに舌を巻く。そして、こうも書く、そこからこそ「優れた小説もまた生まれるのではないかと思う」、と。
つい先ごろ『女性作家が選ぶ太宰治』(講談社文芸文庫)を手に取ると、しんがりの一篇に、山田詠美選「懶惰の歌留多」があった。「私の数ある悪徳の中で、最も顕著の悪徳は、怠惰である」という一文で始まる風変わりな小品なのだが、選者の言葉として山田詠美は、太宰のいう悪徳こそ「唯一無二の小説家の美徳」と書いている。思えば、全十五作「熱血ポンちゃん」シリーズは、怠惰という魔物と手を結んだと見せかけた擬態なのだった。怒りは、芳しい発酵を経て、甘美な小説となって生まれ変わってきたのだ。
(ひらまつ・ようこ エッセイスト)