書評
2015年7月号掲載
きっぱりと明るく描く昭和の戦争ラブロマンス
――野中柊『波止場にて』
対象書籍名:『波止場にて』
対象著者:野中柊
対象書籍ISBN:978-4-10-399905-8
物語が人をはこぶ。遠くへ、懐かしきむかしへ。波止場にいつも船が浮かぶ港町横浜の潮風に吹かれて、大正十四年生れの慧子(けいこ)が杖を手に散歩にでかけるプレリュード。おや、このままおしゃれな老女語りでラブロマンスを読むのかなという思いはさらりとかわされ、舞台は本牧のちいさな洋館へ。時代は日中戦争が始まる前の一九三五年へとふわりと移る。
白い漆喰の壁に赤い瓦屋根、緑の縁取りのフランス窓のあるその洋館を、慧子が父に連れられて初めて訪れたのは十歳の夏のこと。そこには慧子が住む山手の屋敷にはない、くつろぎと開放感があって、竹久夢二が描いたモダンな苺模様の帯を締めた和服姿の鞠と、娘の蒼(あおい)がいた。
慧子の母親は軍人として爵位を得た男爵家の令嬢だ。ミッション系の女学校を卒業してすぐに、麹町から、横浜の生糸を商う浅野商会の御曹司に嫁ぐ。両家ともクリスチャンだ。好きで嫁いだ相手であり、結婚六年目にしてようやく子宝をさずかった安堵も束の間、夫が本牧に別宅をかまえて跡継ぎを生ませようとしていると、乳母のタツから知らされる。三重の生まれで海女をしていたという別宅の女は、関東大震災後から夫達治が面倒をみてきたカフェの元女給で、三カ月しか違わずに生まれた女の子、それが蒼だった。
内気な山手のお嬢様の慧子と、自分のやりたいことは周囲がなんといおうとどんどんやってしまう蒼。この好対照の娘たちはなんと、おなじミッション系の学校へ進み、いっとき恋敵になりながらも戦争をたくましくくぐり抜けて、戦後は流行の先端をいく洋品店を切りまわす。海の向こうから運ばれてくるものと混じり合う土地の風が物語のすみずみに吹き込み、SPレコードが奏でるスウィングジャズのナンバーに乗ってステップを踏む人の姿も、南京町で蒼が出会う纏足をした中国人の老女も、すべて水彩で描かれたスケッチブックのようにどこまでも淡いトーンに包まれている。
物語は、導入と結びに現代を置き、一九三五年からだんだん緊迫の度合いを増して勝算のない無謀な戦争に突入し、大勢の犠牲を出して完敗し、占領期を経て一九五二年に朝鮮戦争が終る直前までのおよそ十七年間を描いていくが、節目となる歴史的事件には丁寧に年月が書き込まれて暮らしの変化も描写されるため、きちんと近現代史の基礎を学べなかった人には良いおさらいとなるだろう。でもそういった事件は、登場する人物をめぐる出来事の背景であり、きっかけであり、物語の流れは、もっと手近な洋服や食べ物といった細部や家族関係の機微、成就しない恋などに強く彩られている。
戦争が遠くで始まり、だいじょうぶ、まだだいじょうぶ、と思っているうちに後戻りできないところへ突き進み、大切な人の生命が失われていく。港町を一望する自室バルコニーに立つ慧子を、スパイ活動をしているのではないかと家族が疑ったり、一億総玉砕が「閣議決定」されて慧子までが庭で竹槍の訓練をしたり、人びとが想像もしなかったところへ追い込まれ、なすすべもなく従うことになっていくのだ。
戦争末期、駆り出された男たちの穴埋めにちんちん電車の運転手をする蒼が、赤ん坊を産んですぐに職場復帰する場面など、物資のない時代に母乳以外でどうやって育てたのかと心配にもなるが、思えばここに描かれるのは女たちのラブロマンスであり、行間から立ち上ってくるのはどんな苦境でもたくましく前向きに生きる人の姿を美しく描こうとする意志なのだと気づく。この潔さは無敵だ。心の葛藤は背後に滲ませて、物事の「明暗」の「明」を際立たせるところが作品の最大の特徴かもしれない。だから読んだあと、ふと、描かれない暗い部分が強く意識されることにもなるのだけれど。
それにしても敵性言語のアクロバチックな置き換えが生々しい。サックスが「金属製曲がり尺八」、コントラバスが「妖怪的四弦」、トロンボーンは「抜き差し曲がり金真鍮喇叭」というのだから苦笑する。「世の中全体がわるい冗談に覆われて、現実感が失われていく」という作品内のことばのリアルさに背筋がすっと寒くなる。絹布の質感など感覚にあざやかに訴える細部を挿入しながら、「本宅」と「別宅」の身分格差の構造を無化した空間のなかに女たちの関係を描こうとする姿勢もまた、両義的ながらあっぱれだ。どんどんページをくって、ああ面白かったと声に出して本を閉じた。
(くぼた・のぞみ 翻訳家、詩人)