書評
2015年7月号掲載
リューシャとヴォーヴァがここにいた
――リュドミラ・ウリツカヤ 絵ウラジーミル・リュバロフ
『子供時代』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『子供時代』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:リュドミラ・ウリツカヤ 絵ウラジーミル・リュバロフ/沼野恭子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590118-9
遠縁の大伯母の家になんとか身を寄せている幼い姉妹は、一〇ルーブリ札を持たされ、キャベツを買いに行かされる。永遠とも思われるような長い間、列に並ばなければならない。「ぎゅっと体を寄せあい、凍えた足を踏みかえ踏みかえ立っている」が、「雨とも雪ともつかないものが降ったり止んだり」して、体はすっかり凍え切る。ようやく番が来たと思ったら、一〇ルーブリ札は、ポケットの穴から消えてしまっていた。それに気づいた子供の絶望的な気もち! 泣き叫んで事情を訴えるが、結局空手で帰らざるを得ない(が、信じられない「僥倖」がごく日常の顔をして降ってくる……)。最後の場面は、「降ってきた」キャベツをテーブルに置き、呆然とおばあさんの帰りを待つ姉妹と、姉妹がいなくなったと涙を流しつつ近所の友だちの家で嘆く「大伯母」の姿を描写して終わっている(大伯母自身もここで初めて姉妹への愛情を自覚したらしい)。今まで接写していたカメラがすっと引いて、舞台上の二カ所にライトが当たっているのを見るかのようだ。
リュドミラ・ウリツカヤの最新刊『子供時代』には、この「キャベツの奇跡」を含む、第二次世界大戦後間もなくの市井に住む子どもたちを描く六篇の物語が、ウラジーミル・リュバロフの絵とともに入っている。ソ連時代の子供たち。遠いはずなのにこの切々とした「近しさ」はどういうわけか。
子供時代というものは、語られればそのまま同一化できるというものでもない。ウリツカヤの「子供たち」が、すぐに読み手である自分の内側の住人であるかのように感じられるのは、この子たちがほかにどうしようもない切実さのなかを生きているからだろう。「釘」のセリョージャは、事情があり遠い田舎にある父親の実家へ連れて行かれる。何もかもが初めて体験するものだ。古いしつらえの室内、そこに満ちている「一生忘れられないような匂い。古い羊皮、酵母、リンゴ、馬の小便その他わけのわからないものの混じった、この世にまたとない匂い……」。そして家に生えているような親族たちと食卓に着くと、大きな一つのスープ皿からそれぞれスプーンでスープを呑む成り行きになる。自分の父親も当然のようにそうしている。自分以外の者は皆そこに属しているのに、自分だけが弾かれて離人症的にすらなりそうな、すべてが無化されていくような心細さ……。しかも翌朝、気づいたら父親は帰ってしまっている。絶体絶命のように思われたが、戯れに釘を打っているうちに、ひいおじいさんが釘打ちを「指導」してくれるようになり、「自分だけ」が、彼と特別の時間を持つことになった。そうして出来上がったのは、実はひいおじいさんその人にとって最も重要な何かだった……。
訳者の沼野恭子さんがあとがきで「……ただの心温まるお話というのではなく、味気ない『日常性』を突き抜け永遠の『聖性』と『祝祭性』をまとって光り輝いているかのような物語である」と記しているように、日常生活の核心に確かにある何か、それが的確に抽出され結晶化されているような六篇だ。しんしんと肩を、肘回りを浸食してくる寒さの実感を伴ってディテールが迫ってくる、その丹念な積み重ねの上に、読者は不意に天上から陽が差してきて世界が一変するような幸福感を、主人公の子供たちとともに体験することになる。本人の五感と脈打つ世界との間に遮る何ものもない、一方的にやってくる世界の鼓動をそのまま無防備に全身で受け止めざるを得ない辛さと、新鮮なまま感受する謙虚さ――それらを支え、持ち堪えさせたのは、スターリン時代の暗い抑圧の中にあっても消し去ることの出来なかった、光溢れる生命の力の、強靭さそのものではなかったか。
画家のリュバロフとウリツカヤは、大人になってから知り合ったが、子供時代の思い出は「素晴らしくぴったり合」い、家や庭やネコ、住んでいる人たちまでよく似ていた。絵はもともと挿絵として描かれたものではないらしいが、それと知ると空気の同質感は驚くばかりだ。この小文のタイトルは、裏表紙の絵に板塀の落書きとして書かれた(リューシャとヴォーヴァはそれぞれの愛称)言葉だ。この時代を、この地で、同じ子供として過ごしたことの深い共感と圧倒的なリアリティが、地球の反対側に育った読み手の心にまで到達して、暗闇に灯る星のように輝き始める。それはなんとも、親しげに。
(なしき・かほ 作家)