書評
2015年8月号掲載
新発見! 山崎豊子の戦中日記、創作ノート
――新潮社山崎プロジェクト室・編『山崎豊子 スペシャル・ガイドブック
不屈の取材、迫真の人間ドラマ、情熱の作家人生!』
対象書籍名:『山崎豊子 スペシャル・ガイドブック 不屈の取材、迫真の人間ドラマ、情熱の作家人生!』
対象著者:新潮社山崎プロジェクト室・編
対象書籍ISBN:978-4-10-339451-8
一月一日 月曜 晴
昭和十九年は過ぎ去った。歴史の年、昭和二十年は、苛烈なレイテの血戦と共に訪れた。元旦と云う如きはれやかな気持些(いささか)もなし。押しつけられたようなへんに息苦しい気持だ。戦況は新聞紙上に報道されるほど良好ではないのだ。祖先の科学せざる過失を、若き者が、子供が今、血を以って償っているのだ。物量と心魂が交換されるのか。熱涙に噎(むせ)ぶ。
山崎豊子の昭和二十年一月一日から三月二十七日までの「日記」が見つかった。この『ガイドブック』編集作業中のことである。デビュー作『暖簾』の創作ノートと一緒に紐でくくられ、段ボール箱に納められていた。
冒頭は、昭和二十年の元日のもの。弱冠二十歳にして、情熱的な血と冷静な視線の両方(後の山崎文学の特徴と言えるだろう)を早くも備えていることがわかる。
大学ノート七十二頁分のその日記の内容は、当時勤めていた新聞社での仕事の話、作家になりたいという希望、日本の勝利を願いつつも戦争は嫌だという気持ち、淡い恋、そして白眉と云える、大阪大空襲の実体験について、など――。
戦時下の青春らしい情景として、ところどころに書かれる恋の話を読むと、自ら「私は凪(なぎ)よりも嵐を呼ぶ女だ」と称し、彼の出征に当たって「何とかしてもう一度会いたい」と書き、その関係を「文学する若き者達の恋」と喩える。その率直さは、いつもストレート勝負だった山崎らしい。三月十日の一節はこうだ。
あの情熱的な彼の眼、もう私は何時死んでも満足だ。けれどもう一度、彼の胸にしっかり抱かれてみたい。彼は何と云う純潔な人間だ。愛するが故になるべく汚すまいとするその神聖な祈るような抱擁。左手に感じた彼の美しい唇は一生忘れられない。
わずか三ヶ月分の日記だが、戦争末期に多感な二十代を過ごさざるを得なかった、一人の人間の正直な感慨(喜び、悲しみ、不安)が、みずみずしい文章で綴られている。特に、大空襲前後の大阪・船場の様子を描いた文章は、さすが未来の大作家、と思わせ、圧巻。
三月十三日、この日は自分の生涯を通じ、又、自分の家の後代に至るも忘れる事の出来ない日だろう。(中略)
火の手は刻々と迫り、二時間もした頃にはあれほど遠かった火の手がもうそこここに上りはじめた。必死の消火に努めた。しかしその甲斐もなく、家は火の手に迫られる一方だ。武(弟)は大屋根であくまで頑張った。父も姉も稔(弟)も、私もみな綿のようにくたくたになるまで活動した。しかし駄目だった。もはやこれまでと家を出んとした時、大きな火の粉を孕んだたつまきが巻き起った。店の窓ガラス、陳列の窓ガラスなどが破れた。思わずふとんをかぶり、身を伏せた。
まさに、戦後七十年という節目の年にふさわしい内容であり、山崎豊子から読者への貴重な贈り物と云えるだろう。「戦争」に関する部分を抄録し二十一頁にわたって掲載する。
『ガイドブック』編集作業中には、新資料に基づく発見が、その他にも沢山あった。
各作品のトピックスコーナーで取り上げているが、例えば、『暖簾』では、当初、完成した作品とは違った冒頭、違った結末が用意されていたこと、『華麗なる一族』の最初のタイトル案は『華々しき一族』だったこと、などなど。
重要な資料公開として、『花のれん』では作家としての独り立ちを決意させた井上靖からの手紙、『白い巨塔』では医療裁判の中身を綿密に検討したあとが窺える進行表、『二つの祖国』では担当編集者に宛てた取材の趣旨や原稿の内容を懇切に説明した直筆の手紙などを掲載する。
更に、山崎ドラマに出演した俳優陣達が明かす貴重な証言として、「山崎先生と私」には、若尾文子さん、唐沢寿明さん、北大路欣也さん、仲代達矢さん、松本幸四郎さん、上川隆也さん、渡辺謙さん、本木雅弘さんが寄稿。
その他、社会学者の大澤真幸氏による、画期的な評論「山崎豊子(だけ)が、なぜ『男』を描くことができたのか」も読み応えがあり、山崎文学&ドラマの「魅力」の秘密を、解き明かす一冊になったのではないだろうか。
(やしろ・しんいちろう 山崎プロジェクト室室長)