書評
2015年8月号掲載
魂を揺さぶる「情」の人
――リチャード・パワーズ『オルフェオ』
対象書籍名:『オルフェオ』
対象著者:リチャード・パワーズ著/木原善彦訳
対象書籍ISBN:978-4-10-505875-3
リチャード・パワーズを読むことは、何かに似ていると思っていた。
僕がパワーズに最初に出会ったのは、英米文学翻訳者の柴田元幸先生の大学院のゼミの授業でだった。『舞踏会へ向かう三人の農夫』を原書で読んだ。そこに何が描かれているのかをよりよく理解するには、第一次世界大戦についての歴史的な知識が必要となり、読むことはすなわち、舞台となる時代の社会史や文化史を学ぶことにもなった。
パワーズを読むのはなかなか骨が折れる。それでも、科学と芸術についての該博な教養に支えられたこの「知」の作家を人が読まずにはいられないのは、彼の作品に人間の「魂」が感じられるからだ。パワーズが来日した折に一度会ったことがある。圧倒的な知性に驚嘆させられたが、周囲の人への思いやりに溢れた謙虚なたたずまいにも心を打たれた。知の巨人である彼は、柴田先生がどこかで書かれていたと思うが、何よりも「情」の人なのだ。
本作『オルフェオ』の主人公は、アメリカ東海岸に暮らすピーター・エルズという老齢にさしかかった現代音楽の作曲家である。大学の特任教授を引退し、ずっと作曲から遠ざかっていた彼は、まったく新しい作曲法を着想する。その手法は遺伝子工学のテクノロジーが発達し、しかもネットによって誰の手にも届くようになったこの二十一世紀において初めて可能になったものである。
パワーズの作品らしく、本書もまた科学技術と芸術との接点について、あるいはその接点において書かれていると言ってもよい。エルズの画期的な作曲法は、細菌の遺伝子操作を必要とする。それはバイオテロにも転用されうる技術である。エルズの自宅に置かれた実験器具が、ひょんなことから警察の目に触れ、警官との会話のちょっとした誤解が疑念を生む。時代は9・11後のアメリカである。あらぬ容疑をかけられ、エルズの人生は激変する。
作品は、エルズの過去を遡行する。彼の人生において決定的な役割を果たすクララとマディーという二人の女性との出会いが回顧される。彼女たちとエルズとの出会いを媒介するのは音楽だ。クララは若きエルズにクラシック音楽の豊かさと多様性を開示する女神(ミューズ)となる。のちに妻となるマディーとは、エルズは自分の作品の歌手として出会うのである。
ギリシア神話の音楽家・詩人オルフェオ(オルフェウス)が、冥界から死んだ妻を連れ戻そうとするものの、振り返ったために妻を永久に失なうという伝承を知っている者は、エルズの愛がどうなるかは想像がつくだろう。だがエルズが失ったものは、それだけではない。
一九四一年生まれのエルズの人生をたどり直すことは、前衛化・先鋭化するあまり聴衆の嗜好から遠ざかっていくアメリカにおける現代音楽のありようを描くことにもなる。作曲家としてのエルズもまた袋小路に入っていく。芸術的な行き詰まりは家庭を崩壊させる。かつての芸術家仲間の誘いでオペラを作曲するが、ある政治的事件をきっかけにエルズは公演を拒絶し、作曲家としてのキャリアに終止符が打たれる。
二十世紀以降の現代音楽の陥った困難はどのようなものなのか。政治的な出来事に芸術家はどのように応答すべきなのか。そうした問題について学べ、考えさせられるところもパワーズ作品らしく読みごたえがある。
だが圧巻は、危機的状況にあるエルズが、過去の作曲家たちが恐るべき苦境のなかで創造した作品に思いをはせる場面である。オリヴィエ・メシアンの「時の終わりのための四重奏曲」とショスタコーヴィッチの交響曲第五番について書かれた文章は、言葉で音楽を再現するという絶対に不可能な試みが、ほとんど成功していると思いたくなるような大きな感動をもたらす。パワーズの文章は不意に読む人の「魂」をつかみ、揺さぶる。
深い音楽の知識と科学的な知見にもとづく専門用語や比喩、複数の時系列が自在に入れ替わる精緻な構成。一見とっつきにくいのだが、しっかり意識を集中させて耳を澄ませば(視線を凝らせば)、見たこともない光景が広がるあの感じ。パワーズを読むことは、すぐれた現代音楽の作品を聴くことと似ているのかもしれない。
(おの・まさつぐ 作家)