書評
2015年10月号掲載
空海が現代人ならと想像させる書
高村薫『空海』
対象書籍名:『空海』
対象著者:高村薫
対象書籍ISBN:978-4-10-378408-1
自慢話めいた言い草になって恐縮だが、以前、私は著者の大作小説のモデルだと思われていた時期がある。『新リア王』『太陽を曳く馬』の主人公の禅僧の様子が私にソックリだと、多くの人たちから言われたのだ。
それはそれで驚いたが、しかし、作品が私に与えた衝撃は、モデル云々などというレベルのものではない。そこに開陳されていた、我が曹洞宗の祖、道元禅師の主著『正法眼蔵』に対する読みの深さと強度だった。
いつかまたお目にかかって、さらに突っ込んだ話を伺いたいものだと思っていたら、著者が空海上人について書くのだという。これにまた驚いた。実は、私にも空海上人に思い入れがあったからである。
私は、日本の仏教史上、その思想の構造的独自性とインパクトにおいて、空海、法然、親鸞、道元の四祖師に過ぐるはない、と考えている。とりわけ、空海上人と道元禅師はまさに好対照である。
超越的な理念や絶対神的存在を現実世界の根拠に置いて、その世界に存在するものの構造全体を説明する思想を形而上学というなら、日本において初めて形而上学を持ち込み、それを理論的に体系化したのが空海上人だと、私は考える。そして、その影響は彼以後の様々な思想的言説に対して抜群かつ絶大であった(今なおである)。
彼が導入した密教は、大日如来という超越者が人間たる修行僧と修行の果てに合一するというパラダイムを持つ。空海上人はこれを「即身成仏」として理論化した。
この理論は、根底にアニミズム的心性を保持している日本の思想風土に極めて馴染みがよかったのである(「現人神」の存在と「ありのままの世界がそのまま仏の世界である」的言説の大量発生)。
おそらく、法然、親鸞、道元、日蓮など、鎌倉時代の仏教革新運動の担い手たちは、淵源が空海上人である思想(天台本覚思想)への挑戦者として、その強力無比な縛りを断ったのだ。
特に道元禅師は、仏教の核心である「観無常」の立場を決してゆずらず、さらに形而上学を持たない日本的心性を背景に、あらゆる形而上学的言説を拒否して、いわば形而「外」的な視点を確保しながら、独自の体系を構築した。その思想的態度は、まさに空海上人の対角線上にあるだろう。
このような筋書きの読みは浅薄かもしれないが、本書に見る捌きも鮮やかな空海上人の思想解説は、私の読みも満更的外れでもないと思わせてくれた。
今回著者の描き出す空海上人の全体像に触れて、私が特に感慨深く思ったのは、空海上人が現代人だったら、あるいは出家しなかったのではないかということだ。
法然、親鸞、道元などの祖師は、現代にあっても出家しただろうと思える。彼らにはどこかに実存の「苦」に対する痛覚がある。それが彼らを遂には出家に導くような気がする。
しかし、空海上人の場合、「苦」によって出家したようには、どうしても思えない。熱烈な「絶対的真理」への情熱と、それに到達する方法への渇望を胸に秘める、空前絶後の「万能の天才」が、それを実現する場を当時にあっては仏教以外に見出しえなかった結果の行為、それが彼の出家に見える。羽目を外して言えば、もし彼が現代人なら、桁違いの「天才マルチクリエイター」などと言われるような人物になったのではないか。
「お大師様」として、歴史上の人物がこれほど広汎に信仰されてきた事実からして、私は彼のカリスマが、単に仏教僧侶の範疇に納まるものとは思われない。
最後にあえて蛇足を言わせていただければ、その空海上人を観る作者の眼は、当の空海上人の、さらにその向こうを観ている気がする。真理の、仏教の、あらゆる言説の彼方。強引な我田引水をお許しいただきたい。私は、著者の観る彼方に、釈尊も道元禅師も観たに違いない、「実存」の無常があると思うのだ。
(みなみ・じきさい 禅僧)