書評
2015年10月号掲載
葛藤する女と、葛藤を避ける男
――篠田節子『となりのセレブたち』
対象書籍名:『となりのセレブたち』
対象著者:篠田節子
対象書籍ISBN:978-4-10-148421-1
一気に読み終えた後、初出年月日を確認して驚いた。「クラウディア」が1999年と最も過去の作品だけれど、一番新しい「トマトマジック」も2010年12月に発表されている。すべて3・11前に書かれた作品なのだ、ということに息を飲むような思いになる。2011年3月以降、世界の色が全く変わってしまった、と思っていた。恐怖や痛み、暴力や抑圧が、よりクッキリとした輪郭を持って世界を包んでいるように感じて、鬱々とした気分が抜けない。3・11前の文学作品には、きっと「過去」を読むように感じるはずだ、と、どこかで私は考えていたのだと思う。
ところがどうだろう。篠田節子さんが3・11以前に描いていた世界は、全て、今、2015年から見える世界とつながっている。それどころか、過去に書かれた小説によって、未来であった今が解説されているじゃないか!
「トマトマジック」。「女の領分」を越えず、世間が女にふさわしいと考える(と、彼女たちが考える)「幸せの形」を自ら演じる女たち。世間から見れば、セレブであり、恵まれた専業主婦であり、美魔女であり、献身的な母親である女たちが最も目をそらしたいのは、自身の本心と欲望であることが、意外な方法で剥き出しにされていく。欲望をそのまま言葉にする女、「女の領分」を無視する女への警戒や苛立ちがピークに達したその瞬間、女たちは、自らが抑圧している欲望の世界に、深く堕ちていくのだ。それにしても、イ・ビョンホンのわかりやすい肉体美よりも、ヨン様の「意外に毛深い太もも」にエロスを感じてしまう感覚には膝を打つような気持ち。なるほどヨン様への欲望が、こう言語化されているものを、私は初めて読んだ。そう、そんな「いやらしさ」を胸に秘めつつ、女は自分の欲望から目を背けたいと思う。そこを肯定してしまったら、だって、もう仮面をつける意味がなくなってしまうから。
「蒼猫のいる家」は、妻としても、母としても、嫁としても、愛人としても、誰とも関係を深められない女の孤独に、清々しい潔さを感じる不思議な物語だ。それにしても、孤独であることが悲惨を深めないどころか、どこか解放感が漂うのは何故だろう。愛人の男に与えられる屈辱も、未来に広がる解放を予感させるのは、何故だろう。帰るべき家がない女、依るべき人がいない女が、人生を東京駅のホテルから新たに始めようとする。大嫌いだった蒼い猫を、隠しつつ。示唆的な終わりで始まる彼女の人生に、女の強さを感じる。怖いのは孤独ではなく、一人で生きられないことなのだ、と。
「ヒーラー」は、最もハラハラする思いで読んだ。群発地震の後に大量発生した、不気味な姿をした深海魚「吹き流し」。女に対しては美に働き、男には性に働く「吹き流し」は、あっという間に人々を虜にしていく。日本の女と男が互いに向きあうことなく、全く違う方向を欲望に身を浸しながら突き進む不気味さは、今の日本の男女関係のパロディとして響く。生身の女に向きあわず、意思を持たない脊椎動物にペニスを吸わせ癒される男たちと、そんな男たちの楽観主義に苛つく女たちの闘い。「問題は何か?」「責任は誰にあるのか?」「どこに向かえばいいのか?」という問いに答える力は、残されていない。葛藤せず、楽観主義で生きる様が、じわじわと自滅を導くことを警告する、怖いくらいの予言の書だ。
「人格再編」は、正直、ニマニマが止まらなかった。有吉佐和子「恍惚の人」の21世紀バージョンは、感動や家族の絆を安易に語り求めたがる、現代日本社会のリアルだ。加齢すること、死ぬこと、介護することされることに、怒りやネガティブな感情を封じ、「いい話」を求め、癒されたい私たちの弱さを抉られるような、快感と痛みを味わいながら読んだ。
「クラウディア」は、前代未聞の雌犬と人間の男の物語だ。ジェンダーの政治闘争が雌犬と男の関係で描かれるコミカルさに思わず吹き出しながら、篠田さんの“残酷さ”に圧倒される。女の気持など全く理解できないフツーの男と、犬も含め、男を全くあてにせず、信用していない女たち。そして私たちがいかに、見たいものを見たいように見る生き物かを、その滑稽さを耳元で囁かれるような気味悪さを、じわりと味わうのだ。
一気に読み終えた後に感じるのは、決して心地良い読後感ではなかった。ただ、全ての小説に通じるのは、今の日本を生きる女の性と男の性が、すれ違い修復できないほどにこじれてしまっている、という既視感だった。そう、ここには葛藤する女と、葛藤を避ける男たちがいる。常に吠え、問題を提起するのは女で、男は問題を避け、葛藤をしない道をゆるゆると選ぶ。女と男はなぜか違う方向を向いてしまい、性的にも交わり難く、だけど突破口が簡単に見つかるわけでもない。そんな行き詰まった空気が濃厚に漂い続けている。世界の色が変わるような大事故を起こした国であっても、ジェンダーの関係が変わるわけでもない。むしろあんな事故を起こした後にこそ、こじれ続けてきた性の問題が溢れ放出しているように私には見えている。
女と男の関係を、篠田さんが果敢に描かれることに、長年の読者として本当に刺激を受けてきた。篠田さんの作品が、過去のものでも、未だに新しく読者を刺すように刺激するのは、描かれているのが人間の普遍、というよりは、私たちがずっと先送りにしてきた、この社会の問題の本質を、真っ直ぐ見据えているからなのかもしれない。残酷で、そして温かい視線で。
(きたはら・みのり 作家)