書評
2015年10月号掲載
けもの道を全力で走り出す
――こざわたまこ『負け逃げ』
対象書籍名:『負け逃げ』
対象著者:こざわたまこ
対象書籍ISBN:978-4-10-121321-7
地方都市の鬱屈、というのは、2010年前後の小説や映画などでくり返し描かれてきた風景でもある。小説では、山内マリコ氏の『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎)、富田克也監督の『サウダーヂ』、入江悠監督の『SR サイタマノラッパー』シリーズといった映画で、私はその鬱屈の数々を見た。
第十一回女による女のためのR-18文学賞で読者賞を受賞し、このたびデビューされた、こざわたまこさんの『負け逃げ』には、その鬱屈がさらに濃縮された風景が、圧倒的な筆力で描写されている。
「この村は、周囲を山に取り囲まれた盆地にある。さらに、南半分が人の住む町と田畑、北半分がタヌキやらイノシシが棲む里山といくつかの小さな集落でできていて、真ん中には、山と人とを分かつように一本の川が流れている。」
作家のデビュー作には、自分が生まれた場所が色濃く反映されることが多いと思う。この作品で描かれる村の景色は、彼女が生まれ育った場所なのだろう、と思わせるほど、リアリティーに満ちている。そこで生まれ、育つ少年・少女たち。そして、その親も、そのまた親も、その土地の持つ鬱屈に足をとられ、もがいている。
大人たちは、一度、村を離れて都会に出て行ったかもしれない。その後、再び、ここに戻ってきたのかもしれない。どんな事情があるにせよ、今は、ここで暮らすと決めた人たちだ。けれど、登場する少年・少女たちは、大学受験を前にして、いつかはここを出て行くかもしれないという期待と、もしかしたら出て行けないかもしれないという絶望の間で揺れ動いている。
物語を牽引するのは、野口という一人の少女である。彼女は足が不自由だ。彼女は誰よりもここから出て行けない少女でもある。彼女はその代わり、不特定多数の男たちと寝る。それを偶然にも知ってしまう田上(たうえ)という少年との交流から、この物語はスタートする。
少年・少女の鬱屈は高校のクラス内カーストによっても濃縮される。皆から疎まれながらも、漫画を描き続ける美輝ちゃん。引きこもりの末に、家を出て行ってしまった兄を持つ小林君。この村で暮らしていくことに翻弄されるのは少年・少女ばかりではない。生徒たちを指導する教師でありながら不倫関係に陥るヒデジと志村先生も、その現実の息苦しさに翻弄され、この村を出ようとする。少年・少女たちはすべてわかっている。そんな大人たちの嘘や欺瞞を。それを抱えたままで、なぜ大人たちがここにいるのか。その描写がこの物語をより重層的に、奥行きのあるものにしている。
自分が生まれ育った場所というのは、ほんとうに自分をいつでも温かく受け入れてくれる場所だろうか? そこに偶然に生まれただけで、自分にとってほんとうに大切な場所だといえるだろうか? 近親憎悪のように、近づいた分だけ離れたくなり、遠くなりすぎればちょっとだけ近づきたくなる。そんな場所ではないか。
こざわさんは福島県、南相馬市のご出身と聞いた。震災、原発事故以降、カッコ付きの特別な場所として語られることが多くなってしまったご自身の故郷の存在が、土地の磁場に左右される人間たちを描くこの作品の強力な動機になったのではないだろうか。
そんなにいやなら出て行けばいい。読みながらそうも感じる。けれど、それができるのは、車と金を持ち自分の足で動ける大人だけ、ということに気づく。ましてや、足の不自由な野口はどうだろう。MDウォークマンで常に音楽を聴き、時に野口に翻弄される田上でなくても、「アイワナビーデストロ~~~イ」と叫びたくなるだろう。
けれど、その鬱屈の泡がはじけ飛んだとき、少年・少女たちは暗いけもの道を全速力で走り出す。不自由な足でスキップする。それが他人から見て、とても奇妙な動きに見えても。走り出したとしても、その先に光があるかどうかはわからない。こざわさんは、それを、とても正確に描く。その先に夢や希望があるかもしれない。そんな嘘をこざわさんは描かない。そこにこざわさんの書き手としての強い誠実さを感じた。
(くぼ・みすみ 作家)