書評

2015年10月号掲載

吉村昭を読む

人間というものの実質

――『吉村昭 昭和の戦争4 彼らだけの戦場が』

最相葉月

対象書籍名:『吉村昭 昭和の戦争4 彼らだけの戦場が』
対象著者:吉村昭
対象書籍ISBN:978-4-10-645024-2

 吉村昭は昭和二年五月一日に生まれた。昭和元年は十二月二十五日から一週間しかなく、その間に生まれても大正天皇の喪に服して出生届を出すのを控える傾向があったため、昭和二年生まれが実質的な昭和第一世代といわれる。「昭二」や「昭」「昭一」など「昭」の字がつく名前が非常に多い。
 一級上は戦地に送られ、一級下は学童疎開を余儀なくされている。昭和十九年十一月から徴兵年齢が十七歳に引き下げられたことから、吉村も翌二十年八月上旬に徴兵検査を受けて第一乙種合格したものの、間もなく終戦となった。この時、十八歳。
 少年期と青年期の境目で終戦を迎えた「末期戦中派」の最後の世代である昭和二年生まれは、だから、戦争に対して距離を置かざるをえない。父親や祖父は東郷平八郎元帥や広瀬武夫中佐ら日露戦争の英雄を肌身で知る世代である。「一言にして言えば、戦時中の私たちは、決して戦争を罪悪とは思わなかったし、むしろ、戦争を喜々と見物していた記憶しかない」(『戦艦武蔵ノート』)。しかし、終戦と同時に大人の態度は豹変し、戦争は軍部が引き起こしたものであって一般の人々に責任はないと主張する者や、逆に戦争を美化する者が現れた。人心が引き裂かれる中、戦後を「割りきれない気分ですごしてきた」(同)のはひとり吉村だけではないだろう。
 吉村が戦史小説を書くようになった経緯は『戦艦武蔵ノート』に詳しいので繰り返さないが、一つだけ、「私なりに戦争の記憶をもう一度じっくりと反芻してみることが、私をもふくめた人間というものの実質を解明するのにこの上なく恰好な方法だ」(同)という文章を心に留めておきたい。吉村は戦争を描きたかったわけではなく、「人間というものの実質」を知るために戦争を題材としたということだ。それは他の作品となんら変わりない、吉村昭という小説家の基本姿勢といえる。
 吉村が最初に書いた戦史小説は昭和四十一年に発表した『戦艦武蔵』で、七年後の『深海の使者』で筆を措いている。理由は証言者が少なくなったからだと『戦史の証言者たち』にある。戦後七十年を迎えた今でも新証言が発掘されていることを考えると早すぎるように思えるが、吉村の戦史小説は証言なくして成り立たず、相手の目を見て話を聞き、裏を取ることを自分に課していたことを思えば理解できないことではない。ストイックな自制心の背後には、自分は戦争の傍観者にすぎなかったという負い目があったと『万年筆の旅 作家のノートⅡ』で吐露している。
 ただそれ以上に、吉村には人間への不信があったのではないか。人は都合よく記憶を再構成する。意識的であれ無意識であれ、やむをえないことだ。だがカメレオンのように時代に順応していく人間の不可思議さを目撃し、自分もまたその一人だと自覚するからこそ、事実に対して忠実であることを作品の背骨としなければならないと考えたのだろう。
 現代の私たちには想像しにくいが、昭和四、五十年代には政策の遂行者を含む戦争の当事者がまだまだ存命だった。吉村のテーマは戦艦武蔵にせよ、零式戦闘機にせよ、歴史の検証に耐えることをとりわけ要求されるものだ。当事者の厳しい評価にさらされることは明白で、圧倒的な事実を前にして安易な虚構を加えることは慎まねばならなかったに違いない。
 だがそれは、ブレーキをかけながらアクセルを踏むようなものである。年々スピードを増す肉声の死に伴って「眩い空をもった戦時という不可思議な時間が、遠い歴史の襞の中に埋もれようとしていると」(『万年筆の旅』)実感し、「私の内部から肉声を探し求めるという意欲が急速に薄れていった」(同)として、誰が責められようか。吉村は二度と聞き取ることのできない、歴史の重要な核となる人々の証言を残した。禊ぎは果たされたのだ。
 そうした背景をふまえながら、本巻に収録された「背中の勲章」(昭46)から「帰艦セズ」(昭61)までの小説六編を読むと、これらが戦史小説から歴史小説(初の長編歴史小説は『冬の鷹』昭47〜49)に移行していく吉村文学の過渡期を示す注目すべき作品群ではないかと思えてくる。吉村は主題を明確にするためには事実を取捨選択し、創作上の人物を登場させた。事実を徹底的に追った『戦艦武蔵』とてそうである。肉声が減ればなおのこと、「小説という私の胸に抱く様式の器からあふれ出たもの」(同)はたとえ事実であっても大胆に切り捨てる必要があった。逆に真実に迫る事実を一つでもつかめたら、それだけで小説になる。太平洋戦争が日清・日露戦争と同じように歴史の襞の中に埋もれつつあったこの時期、吉村はきっと、貴重な記録と「人間というものの実質」の間で試行錯誤を繰り返したはずである。
 それはとくに、同じ人物の同じ体験を繰り返し扱った三編を読み比べれば顕著である。「逃亡」(昭46)の望月幸司郎は「月下美人」(昭55)では菊川三郎となり、「帰艦セズ」(昭61)で橋爪として描かれた。「逃亡」と「月下美人」に登場する吉村とおぼしき一人称の「私」は、「帰艦セズ」では三人称の「小説家」となっている。同じストーリーが繰り返されながら少しずつ変化していく小説をSFではループものと呼ぶそうだが、この三編はまさに実在の人物の稀有な体験という事実をループ状に進行させながら、視点を作者から作中人物に移行させていく、吉村の小説作法七変化を味わうことができるのだ。
「逃亡」にあるのは、「私」の望月への「共感と信頼」である。事件当時、望月は十九歳、「私」は十七歳。自分が望月の立場にあったなら同じような行動をとったにちがいなく、それは「巨大な歯車にまきこまれた自然の成行き」と「私」は思う。イデオロギーとは無縁の望月が「純真素朴さ故に異常な生き方をしなければならなかったことに、強い共感」を覚え、「男が私のことを語ってきかせてくれているような気がしてならなくなった」。
 本作が発表されたのは、テープレコーダーを抱えて証言を収集する作業が大きな比重を占めていた時期である。「私」は望月の心の揺れを気遣う一方で、事実確認を怠らず、ついには、望月の逃亡を調査した上司の勤務先を突き止めて二人を引き合わせる。望月の言葉を信じてはいたが、いや、信じたかったからこそ彼の話がすべて事実であることを確認せずにはいられなかったのではないか。作者が作中人物に直接的に関与するというのは、共感なくしてできることではない。
 一方、「月下美人」にあるのは、小説のモデルによる「呪縛と解放」である。書く側と書かれる側には大きな隔たりがあり、書く側はいわば権力だ。何十年も胸に秘めていた出来事を洗いざらい告白した菊川はそれを悟ったのだろう。暮らしを一変させた「私」に怒りと憎しみを向け、書くのをやめてほしいと要求した。菊川が「私のことを語ってきかせてくれている」というのは「私」の一方的な思い入れにすぎなかったのである。
 だが、「私」は彼の不安定な精神状態に見切りをつけるように、たとえ抗議されたとしても無視の姿勢を崩さないつもりだという強気の態度に出る。「私には私の立場がある」とは、なんと傲慢か。だがそれが作家の業であることから目をそらさず、菊川と「私」の関係性の変化を通して描き出すところに、私はむしろ吉村の実直な人柄を見る。
 結局、モデルによる呪縛と作家の矜持とのせめぎあいから「私」を解放したのは、菊川その人だった。菊川はタコ部屋の体験を実名で告白した本を出版した。彼もまた公の場に身を投じたのである。これによって吉村の贖罪意識が薄まり、楽になったであろうことは想像に難くない。ただそこで、めでたしめでたしとならないのが吉村の誠実さだ。いつかこの恩義に報いなければならないと思っていたのではないか。
 六年後、その日は訪れた。彼が小説の題材を提供してくれたのだ。吉村は人に与えられた題材に関心をもつことは皆無だと述べている。僭越ながら、私も同じなのでよくわかる。テーマへの関心は作品を書く原動力だからである。だがこの時の吉村は違った。
 そうして書かれた「帰艦セズ」にあるのは、関係性の「昇華」である。本作は終始、橋爪の視点が貫かれている。書かれるという受動的な立場にあった人物が、ここでは自分の足で北海道に渡り、殉難者の調査に協力し、海軍機関兵の死の真相を追って行動する能動的な人物として描かれる。作家は登場するものの、橋爪の視点で語られているにすぎない。「逃亡」から十五年間の紆余曲折を通して、吉村は自分の目を主人公の目に重ね合わせ、「私をもふくめた人間というものの実質」をあぶりだしたのである。
「帰艦セズ」から二年後の昭和六十三年、吉村は「小樽の丘に立って」という随筆で、モデルとなった人物の実名を明かした。『雪の墓標』(昭54)の著者・賀沢昇である。賀沢はその後も続編を出し、タコ部屋の実態調査と殉難者の慰霊に後半生を捧げたという。
 人間の数だけ戦争はある。吉村はそのことにいち早く気づき、畏れとともに戦争に向き合った。それは、私とは何であるかを突きつけられる長く苦しい旅であったと思う。

 (さいしょう・はづき ノンフィクション・ライター)

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