書評
2015年11月号掲載
うしなって、得るもの。
――川上未映子『あこがれ』
対象書籍名:『あこがれ』
対象著者:川上未映子
対象書籍ISBN:978-4-10-138863-2
「あこがれ」と聞いて、だれを思い出すだろう。
この物語の主人公のように、小学校の頃ならば。
同級生で好きな男の子はいたけれど、その響きと結びつけるにはちょっとちがう。手が届かなくてどこか謎めいていて、その見えない空白部分をあれこれ自分の想像で埋めて完成する存在。近所に住んでいてサッカーやスケボーを教えてくれた上級生の男の子、親戚の集まりで顔を合わせるたびにどきどきするほど綺麗になっていく叔母さん、それにアニメのヒロインなんかもそうかもしれない。私は『タッチ』で南ちゃんに出会って彼女がやっていた新体操をはじめたぐらいだ。
懐かしい情感に溢れ、やわらかな余韻をもつ言葉によって綴られてゆく本書『あこがれ』に登場するのは、少し神経質な麦彦と、周りとは一線を引いている女の子へガティー。同級生の二人がそれぞれ抱く「あこがれ」が描かれていく。
麦彦が惹かれるのはスーパーで働くミス・アイスサンドイッチだ。クラスの女子やお客さんから顔のことをひどくいわれているような女性だけれど、彼女のそんな容貌を含め、堂々とした強さやかっこよさに想像や願望も重ねながら日々想い続けている。好き、とははっきりと意識していないが、ミス・アイスサンドイッチがいよいよ店を辞めてしまうという話を聞いて激しく動揺する麦彦にへガティーがかける台詞が、とてもいい。
「だって、会うためにはぜったいに会いにいかなきゃならないんだから。でも、だから、それをやめちゃうと、もうほんとうに何もなくなっちゃうんだよ」
幼い時に母を亡くし、小学校一年の時から「できるだけ今度っていうのがない世界の住人」になると決めたへガティーは言いきる。「いちばんむずかしいことっていうのはさ、いなくなっちゃった人に会うってやつ」だから、まだ会えるのなら「会いにいったほうがいいよ」と。
これは真理で、だけど、大人になるまでにたくさんの人と出会って、別れて(何となく疎遠になって、軽い気持で会わなくなって)、好きだったり影響を受けたりした相手でも、とうとう会いたくてももう絶対に会えなくなることがあると知った今の私だって、ついこのことを忘れてしまったりする。
へガティーが届くことのないお母さんへの手紙を書く場面では、ふと自分の母親と祖母の話を思った。
私の祖母は母が五歳の時に亡くなった。初めて聞いたのは私が小学校に上がる前で、母はおばあちゃんが写る白黒の写真を手にしながらとても穏やかに、「放送局に勤めていて、とても明るい人だった」などと、たぶん少ない記憶を辿って伝えてくれた。それからも私はよく母におばあちゃんについて尋ねた。祖母とさよならをしなくてはいけなかった母の幼い頃に自分を重ねながら黙り込む私に、母はきまって、「もう昔のことだからね、いろいろ忘れちゃってるわよ」と話を終える。それ以上言いたくないのか、ほんとうにつらいことだから無意識に記憶から消し去っているのか、たんに時が為す効力なのかはわからないけれど。へガティーと同じように、私も会ったことのないおばあちゃんを何度も想い、さみしい時やつらすぎる時には語りかけもした。新体操部でいじめに遭ったり、母と喧嘩したり、反対に母を恋しく感じた日にはとくに。祖母こそ、私のあこがれかもしれない。
思春期を迎える前の自分たちの目前には、「大人」と「子供」の境界線がはっきりと引いてあった。線の向こうでは成長することへの期待と希望が光る一方、悪意や不条理も確実に見え隠れしていた。主人公のふたりは、焦がれる対象にふれようと、その線から少し出て手を伸ばす冒険をしたのだと思う。そうすることがきっと自分の今を変え、救うかもしれないと信じて。けれど、そのあこがれは向き合った瞬間、それまで描いていた美しい理想の形を崩し、彼らにまで鋭い破片をばらまきながら砕け散っていく結果になる。望みとはちがう形であろうとひとつの答えを得た幼き冒険者たちが、確実に成長している姿は清々しく心を打つ。そして大人の私たちだって、さらに成長したければ、もっと自分から手を伸ばすべきなんだ、とこの作品は教えてくれるのだ。
欲しいもの、なりたい誰か、だいじにしたいこと、思い通りにならない現実、災害や事件に満ちた世界、さまざまな考えの人がいると知ること......。大人になるまでのあいだに、あこがれていた対象はだんだん少なくなっていくのかもしれない。でもきっと、強く抱いていた思いはいつまでも残る。失った、届かなかったという記憶とともに、いつまでも美しく、尊く、他には替えられない輝きをもちながら。
(おしきり・もえ モデル)