書評

2015年11月号掲載

小説家森達也の鮮やかな大作

――森達也『チャンキ』

佐々木敦

対象書籍名:『チャンキ』
対象著者:森達也
対象書籍ISBN:978-4-10-466203-6

 日本で最もアクティヴかつアクチュアルなドキュメンタリストである森達也は、『ドキュメンタリーは嘘をつく』という著書もあるように、真実と現実と事実を追究しながら、同時に嘘と虚構とフィクションに一貫してこだわってきた。というよりも、彼にとっては、通常は対立項と捉えられている右の二項のそれぞれは、同じものの両面なのだ。『チャンキ』は、そんな森が書いた長編小説である。
 舞台は近未来(あるいは並行宇宙?)。日本/日本人は、突然、猛烈な自殺衝動に襲われ、自らを死に至らしめるまで決して止められない「タナトス」という原因不明の病(?)によって、絶滅の危機に瀕している。タナトスは一度でも日本国籍を持った者であれば、誰もが発症し得る。いつ発症するかは誰にもわからない。治療法は不明。一旦発症して自殺を免れた者はいない。国外に脱出しても、日本人であれば免れることはない。発症率はどんどん上がっている。日本はもともと自殺者が多い国だったが、今では毎日物凄い数の自殺者が出ている。その結果、人口は激減し、在留外国人たちは帰国し(今のところタナトスは「日本人」しか罹らないのだが、メカニズムがわからないので、諸外国は日本に同情しつつも疑心暗鬼になっている)、国内は絶望と無気力と刹那的な欲望によって荒廃している。いうなれば日本という国自体が、ゆっくりと自殺していっているような状態だ。
 しかし、そんな日本にだって若者はいる。主人公チャンキは地方都市に住む高校生。彼のクラスも日増しに数が減っている。タナトスは時と場所を選ばないので、友人の陰惨な死に様を見てしまうことだってある。何よりも、自分自身がいつタナトスに襲われるやもしれない。だが、それでもチャンキは青春真っ只中である。柔道部の試合に一喜一憂し、ガールフレンドの梨恵子といつ舌を入れるキスが出来るか、いつそれ以上に進めるかに気を揉み、大盛りラーメンに舌鼓を打つ。ティーンエイジャーの行動原理は基本的に変わっていない。
 この小説のユニークな点は、設定の異様さと、そこに込められた現在の日本社会への、ひいては日本/人なるものへの根底的な批判意識にもかかわらず、エピソードやディテールの次元では実に真っ当な青春小説の体裁を取っていることである。しかもそこで描かれる「青春」には、明らかに昭和の薫りが漂っている。おそらくここには、他でもない作者の森達也自身の青春時代の想い出が、多少とも影を落としている。ディストピア的想像力とノスタルジーが奇妙に共存していることが、大きな特徴だと言える。
 チャンキと梨恵子は、ひょんなことから、行政から見捨てられたゾーンであり、誰もが(その理由も未詳なまま)忌み嫌って足を踏み入れようとしない、一種の"悪所"である「カメ地区」に赴き、そこで共同生活を送る外国人グループと知り合う。彼らはそれぞれの事情で日本に留まることを選択した人々だった。このあたりから物語は急展開する。チャンキの高校の休職中の老教師で、言動の怪しさのせいで奇人扱いされている「ヨシモトリュウメイ」の意外な正体、カメ地区に行ったせいでチャンキが見舞われる誤解、外国人グループの失踪など、卓抜なストーリーテリングに乗せられて、大作と呼んでいい長さを一気に読み通させる。正直、作者名を伏せたら、あの森達也の小説だとは誰もわからないのではないか。この意味で本作は、小説家森達也の鮮やかなデビュー作と言っていい。
 だが、それと同時にもちろん、われわれはこの作品が「あの森達也」によって書かれたものだと知っている。実際、これは彼がこれまで相手取ってきた「日本」への痛烈にして痛切な哀悼の書である。タナトスは架空の病いだが、これはやはり現実の日本の話なのだ。そう思って読むならば、この物語の最後に素描される、ペシミズムの極致のその先にほの見える希望こそ、彼が何としても探り当てようとして、読者にも目を向けさせたいと願っている真のテーマなのだとわかるだろう。だが、それが何であるのかは、あなた自身に頁を繰って貰うしかない。

 (ささき・あつし 批評家)

最新の書評

ページの先頭へ