書評・エッセイ

2015年11月号掲載

新たな先史時代に佇む人類への一冊

――森田真生『数学する身体』

原研哉

対象書籍名:『数学する身体』
対象著者:森田真生
対象書籍ISBN:978-4-10-121366-8

 数学を、固有の学問体系にとどめず「すでに分かっていることを、わかり直す」営みであると著者は説明する。
「私」から切り離された世界ではなく、「私」を含む全体に、より深く関与しようという「生の営み」として数学を捉えようとする視点がなにより新鮮である。
「mathematics」の語源はギリシア語の「μαθήματα(マテーマタ)(学ばれるべきもの)」に由来するものであり、これは通常「数学」という意味で捉えているものよりはるかに広い範囲を指し示す言葉であったと著者は言う。ハイデッガーの「学び」に対する解釈、すなわち、「学ぶということは、既に知ってしまっていることを、あらためて学び直すことである」という解釈を示し、数学もまた同じであるというのである。
 確かに人間は学びの前にこの世界に生まれ落ち、活動を始めているわけであるから、生きるという動作や営みのうちに既に世界を受け入れ、そのしくみを体得している。ただしその「体得」がいかなるものであるかが理解できていない。生命として生きるうえで、自身と環境との関係や、自身をも包含し自他の区別もない宇宙そのものの様相を、理性的な知見としてこつこつと捉え直していくことが「学ぶ」ということなのだろう。
 つまり、数学とは「数」という対象についての科学的な知の体系ではなく、生きるものとしての人間が、自分をも包含する宇宙の相関を手探りし続ける姿に他ならない。生まれ落ちた自分の身体はまさに問いの資源であり、身体や感覚を通して世界と交感していく中に、数学への旺盛な衝動が生まれてくるのだと作者は言う。
 僕は「デザイン」という概念で世界と渡り合っているが、森田真生氏のいう「数学」は自分の考える「デザイン」に近似していると常に感じている。世界に生まれ落ちた人間が、その能力を用いて、環境をどのように変容させ、文明を築いてきたかという観点から捉えるデザイン観と、世界認知の道具あるいは対象として、それがどのような思索とともに世界への洞察を深めてきたかという数学観は同根である。
 身体能力を道具の進化を介して拡張しながら環境を変容させてきた人類であるが、その始まりを考える時、手と石器の出会いはひときわ重要な局面である。本書にも「数の始まり」が、指の数や身体と関連があることが指摘されていた。環境を把握するのに必要な「数える」という行為を、手指の数や形に照応させる数の黎明は、そのまま石を「持つ」という道具の黎明に対応している。手が石を持ったのか、石が手に「持つ」を教えたのかは定かではないが、そこから「叩く」や「壊す」、「つくる」や「殺す」、「耕す」や「侵略する」、はては「探査する」や「防衛する」などの能動性が無限に導かれることになる。本書で紹介されている数学史上に名前を残した研究者や哲学者たち、すなわち、デカルトやライプニッツ、ニュートン、そしてヒルベルトからチューリングへと至る思索の能動性の変化を道具の進化に並列させて眺めると面白い。
 数学においても人類史における道具の進化と並行するように、「数える」こと、「計算する」ことを越えて、世界をより複雑に「認識」、「操作」、「変容」、「解読」、「拡張」する道具としての着想が次々と生み出されていく。チューリングの着想を介してのコンピュータや人工知能への到達は、数学にとっては特別な地点を意味するはずであるが、道具の歴史も、実はその同じ地点に到達している。どうやら数学もデザインも、今日、同じ場所に佇み未来を見据えているような気がするのである。
 岡潔の思想に著者が惹かれるのは、問題が再び根源的な局面へと回帰し、それが技術や能力の問題ではなく、生命として宇宙に対峙していく根本の姿勢が問われているからだと思う。どうやら人類は、新たな先史時代にさしかかっているようだ。
 登る樹は違っても、その上から見る光景は似ている。それを久々に感じさせてくれる一冊で、デザインの樹という風変わりな樹に取り付いている自分には、ことさら励みになる、そして腹の底にこたえる一冊であった。

 (はら・けんや デザイナー)

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