書評

2015年12月号掲載

日本人が生きる時間とは

――片山杜秀『見果てぬ日本 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦』

先崎彰容

対象書籍名:『見果てぬ日本 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦』(新潮文庫版改題『左京・遼太郎・安二郎 見果てぬ日本』)
対象著者:片山杜秀
対象書籍ISBN:978-4-10-104471-2

 人は時にままならない現実を前にして、遠い過去に思いを馳せ、まだ見ぬ未来に希望を託す。永遠の時間軸を行ったり来たり、そして現在に立ち止まることで日々を生きている。
 ならば過去・現在・未来のいずれを好むかで、各人のパーソナリティを分けられるはずだと著者は言う。さらには、より広くその時代性もつかめるだろう。たとえばドイツでヒットラーが登場してくる時代には、未来志向が渦巻いていた。では、日本の場合はどうか。かつて日本人はどのように時間をとらえ、そこからどんな光景を思い描いたのだろうか。
 この問題意識に基づいて、三人の表現者を取りあげている。司馬遼太郎、小津安二郎、小松左京である。彼らはいずれも戦争体験を背景に、歴史小説、映画、SF小説の巨匠となった。彼らの作品を一つひとつ丹念にひもとけば、きっと日本人の時間意識を明らかにできる。さらに二〇一五年の「今」を生きる私たちにも、示唆を与えるにちがいないという確信が、この著作の緊張感と魅力を生みだしている。
 そしてもう一つ、文章を背後から支える政治思想史の厖大な知識が著作の魅力を深めている。強靭な足腰があれば、長くて重いバットでも振れるし、相手の球も自在に打ち返せる。だからこそ著者も、この三人の一見奇妙な取り合わせにも、ブレることなく作品群を鮮やかに解読できるのだろう。
 具体的に内容を見ていこう。ふつう「司馬史観」は、この国民文学の生みの親とほとんど同じ意味でつかわれる。しかし著者は、司馬が何よりも国家の枠、「土地」というくびきを跳びだしたロマンの人、外へ外へとむかう小説家だと見る。
 モンゴル語を学ぶことから出発したように、本来、司馬は平原を跋扈する騎馬民族をよしとする小説家である。だから過去の日本人のなかに、その姿を追い求めた。東国の武士のように、土地を離れ、自由に旅する人間たちである。
 しかしそれでは十分でない。この国の平野など所詮狭いからだ。そこで淡路の高田屋嘉兵衛、土佐の坂本龍馬、日露戦争における秋山真之のように、さらに雄大な世界=海に挑む男たちを主人公に小説を描いた。
 司馬史観を貫く土地執着への嫌悪は、バブル時代をむかえると、怒れる時論家の一面を顕わした。地面を、商品のように見なして儲けのタネにする土地資本主義を、野坂昭如や松下幸之助らとの対談で激しく批判したのだ。
 小松左京の未来小説は、司馬の歴史小説と併せて読むとより光を放つ。高度成長の象徴、大阪万博のメイン・テーマ「人類の進歩と調和」を立案した小松だが、無条件に未来を肯定したわけではない。かつての戦争体験をふまえ、過去も現在も日本人はダメだと考えた。
 戦争で廃墟を経験したにもかかわらず、深刻な反省もなく、どうにかなると思っている。だったら未来の進歩の象徴、原子力が破滅的な影響を与える小説を書いて脅してみてはどうか。現在に緊張感をあたえ、未来へ向かって決断する大切さを教えたい。司馬が過去だとすれば、小松は未来に日本人の可能性を見ようとした。
 このとき歴史と未来に向かって、小津安二郎が語りかける。過去にロマンを探し求めるのも、未来に警鐘を鳴らすのも大切だが、人間はそればかりでも生きていけない。むしろ個人とは、現在を黙々と生き続けている存在ではないのか。
 こうして「棒杭を抱いているような」人間存在の象徴、笠智衆を中心に、小津の「小さき者」へのまなざしに充ちた映画ができあがった。アメリカなどと違い、資源に恵まれない「持たざる国」が、国際社会で何とか耐えしのいで生きていく方法としても参照すべき節約と持久戦の思想である。
 ここで著者が対比する黒澤映画では、アメリカ的な主体性の哲学と肯定的精神に依拠した日本人像が求められている。「現在」を重視し、運命を粛々と受け入れる小津映画とは対照的だ。その違いは、小津が中国戦線で「現在進行形の日常」に手一杯な人間の姿を見続けたことに由来する。
 以上のように、過去・現在・未来のどの時間を重視するかによって、理想の日本人像も異なっていることを著者は明らかにした。そこでは、司馬や小松よりも小津の示した人間像に「現在」を生きるヒントを見いだしているようだ。
 笠智衆のような「ぬうぼう」とした佇まいで、目の前の現実を淡々と生きる。それは、騒々しい時代への確かな処方箋の一つにちがいない。

 (せんざき・あきなか 日本思想史・東日本国際大学教授)

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