書評・エッセイ

2015年12月号掲載

十年の時を刻んだ家族写真

――竹田武史『桃源郷の記 中国バーシャ村の人々との10年』

安田菜津紀

対象書籍名:『桃源郷の記 中国バーシャ村の人々との10年』
対象著者:竹田武史
対象書籍ISBN:978-4-10-334032-4

 どこまでも連なる険しい山肌に、麗しい棚田が青々とした彩を添える。色鮮やかな衣装に身を包んだ人々が、四季折々の顔を覗かせる自然の中で、その恵みに感謝を捧げ、共にささやかな歌を口ずさむ。そんなつつましい営みがこの世界にまだ残されていたのか......新鮮な驚きとともに、どこか懐かしさを抱くのは、なぜだろうか。
 中国・貴州省の東南部。写真家である著者が十年の歳月をかけて通い、記録し続けるバーシャ村は、苦難の歴史を経て辿り着いた苗族の住処だ。温かな目線でその営みをとらえた写真、素直な心の動きが綴られた文章、その中で生き生きと描き出される村の姿は、まさに"桃源郷"と呼ぶにふさわしいものだった。それは単に自然が織りなす美しさ故ではない。山々に囲まれた過酷な環境だからこそ、人と自然とが同じ空間を分かち合い、その多様さへの畏怖の気持ちを抱きながら日々を送るその姿は、私たちが遥か昔に置き去りにし、忘れ去ったもののような気がしてならなかった。
 バーシャ村には、電気もない、水道もない、便利な交通手段もない。とにかくないもの尽くしだ。けれどもその"ない"ところは、裏を返せば"なんでもある"ところだということに気づかされる。すべてが手作業だからこそ、人がつながりあい、助け合い、常にその輪の中に身を置いている。村のまとめ役であるラーワンさん一家に迎え入れられた著者もいつしか、家族の一員のように、ときには泥に足を取られながら稲を植え、ときには稲穂の束を担ぎ、木陰でもち米と馴れずしの昼食に舌鼓を打ち、その輪に加わっていく。
 ふと顔を上げ、自分が暮らす東京の街並みを振り返る。見上げてもそこには、ビルに切り取られた空の欠片が見えるだけ。機械化されたあらゆるサービスに囲まれれば、誰とも会話をすることなく日々を過ごすこともできてしまう。これだけ人に溢れている場所で、なぜ寂しさが溢れるのだろう。私自身、海外の田舎から東京に帰って来るたびによく思ったものだ。そして改めて自分に問う。私たちが辿り着いたこの生活は、"豊か"と呼ぶにふさわしいのだろうか、と。
 永遠に続くかのような、村の中の愛おしいひと時。けれども時代はまさに、"発展"への道を駆け上ろうとしていたときだ。子どもたちの教科書には"文明的生活"のお手本のように、コンクリートで塗り固められた都会の姿が描かれている。読み進めながら私の胸にも一抹の不安がよぎる。このまま"均質な幸福"の波が、この村をも飲み込んでいってしまうのではないだろうか。村の門があった場所は重機でならされ、観光地化のための踊りの練習が始められていた。
 こうして抱いた不安がいつしか、著者の心の葛藤に重なっていく。失われつつある"桃源郷"、そのあまりの変化の速さに戸惑い、混乱し、失望さえ抱く。そしてその失望とは、文明社会から隔たれた人々に"桃源郷"のイメージを重ね合わせてきた、自分自身のエゴの裏返しなのではないか、と。自問を続けながら、著者の足は遠のいていく。
 そこから数年の時が経ち、未曾有の災害が日本を襲った。東日本大震災だった。瓦礫に覆われた東北の様子が日々画面越しに映し出され、"当たり前"のものが当たり前ではなかったことに誰しもが気づかされた日々だったのではないだろうか。そんなときに、人の命を直接救うことができない写真家に何が出来るのだろうか。私自身も、東北に通う写真家たちも、後ろめたさを抱えながらもただひたすらに、通い続け、記録を続け、ときにはカメラを置き、物資の運搬に奔走することもあった。そんなある種の"熱"に触れ、著者は思ったという。無我夢中でバーシャ村に通い続けていた頃、自分も同じような熱を漲らせていたのではないか。一児の父親になったことも重なり、バーシャ村で過ごした日々の意味合いが、時を超え、これまで以上に切実な意味を帯びてきたのだった。
 七年ぶりに訪れた村の観光地化は更に進み、村人たちの意思だけでは抗えない波が押し寄せ続けている。それでも、守り抜きたいものはなにか。最後に帰りつくのはやはり、家族の姿だった。その小さな共同体のために、ときに新しい命を育み、ときに村を離れてでも、それを頑なに守ってきたのだ。この本の最後は、孫たちを合わせて大家族となったラーワンさん一家の集合写真で締めくくられている。その"一瞬"を切り取った写真の中には、著者が彼らと共に刻んだ、十年以上の時が流れているようだった。温かな輪を自らの手で守り、築いていく喜び。本書はそれを優しく伝えてくれる。

 (やすだ・なつき フォトジャーナリスト)

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