書評・エッセイ

2015年12月号掲載

追悼・佐木隆三さん

あの熱き日々

校條剛

対象著者:佐木隆三

「あーっ」と思わず声が出た。死去の報に触れたときである。しまった、しまった、という後悔の言葉ばかり胸の奥から湧いてくる。現在京都に住んでいる私は、その気になれば明日にでも佐木さんの暮らす北九州市まで行けたというのに、きっかけがないまま先伸ばししていたのである。
 佐木さんとの思い出は沢山ありすぎる。私が「小説新潮」編集者としての初期に集中してはいるが、何から話していけばいいか途方に暮れてしまうほどエピソードは多い。
 佐木さんに書いてもらった作品中で一番思い出深いのは、犯罪ものではあるが、ドキュメントではなく、「文学」作品と呼ぶことができる『海燕ジョーの奇跡』だろう。佐木さん四十二、三歳、私が三十歳ころの仕事である。
 海燕は、「かいえん」ではなく「うみつばめ」と読む。当時、年四回出していた「別冊小説新潮」で、毎回百枚ずつ一年間の連載だった。新聞や雑誌の連載を何本も抱えていた佐木さんに十日程度で百枚書いてもらうのは、普通だと不可能だろうが、カンヅメならなんとかなると考えた。だが、新潮社はホテルのカンヅメ代は負担しないという方針をとっていた。それなら、「井上ひさし方式」を採用し、新潮社に泊まり込んで書いてもらうことにしよう、そう考えたのだ。新潮社には、新潮社倶楽部という著者用の宿泊施設があるが、そこは上下階それぞれ一人ずつしか泊まれなかったのと、居心地が良すぎて仕事にならない可能性もあった。佐木さんは以前、寝袋を持ち込んで短篇を書き上げた実績があったが、今度は長丁場なので会社に申請して、一万円で折り畳みベッドを購入したのだった。
 新潮社の別館の四階には当時空いている小さな会議室があった。そこを十日間借り切って、佐木さんの臨時の書斎兼寝室とした。佐木さんは日中は打ち合わせや取材で出かけることも多かったが、夜には必ずその会議室に戻ってくる。私も五階に設置されていた仮眠室のベッドを一つ占領して会社に泊まり込み、自宅には洗濯物を持ち帰るだけにしていた。
 夜、十二時くらいに佐木さんから「今日は終わり」という内線の電話が来る。佐木さんは二百字詰の「半ペラ」と呼ばれている原稿用紙を愛用していた。半ペラで二十枚の原稿が出来上がっていなければならない。日によって増減はあるが、だいたいペラ二十枚が書きあがっていた。
 私は、原稿を読み終わると、感想とときに意見を述べる。ある晩のこと、原稿に満足できない旨を伝えたことがあった。佐木さんは、素早く原稿を手にするとびりびりと引き裂いて、全部屑籠のなかに捨てた。あっと言う間の出来事だった。本人も多分、ノルマを達成するために枚数はこなしたが、内容には満足していなかったのだろう。
 私は猛烈に感動した。最初の読者でもある私の一言で作家が原稿を廃棄したのだ。編集者である私もこの仕事に参加しているんだという強い思いが身内を熱くしたのである。
 原稿を私が読み終わると一日が終了する。壁際に佐木さんが持ち込んだ日本酒の一升壜が置いてあった。紙コップになみなみと満たした冷や酒を二人向き合って喉に流し込む。ほどよく酔いが回ったところで、佐木さんは簡易ベッドに、私はもう一階上がって仮眠室へと向かうのである。
 朝も顔を出して、佐木さんとその日の予定を打ち合わせる。毎日、佐木さんは自宅に電話して、まだ小学校入学前の息子さんと話をするのを日課にしていた。「息子からね、昨日は何枚書いた? と訊かれたんですが、とうとう息子にまでウソをつくことになりましてね」と悪びれずに話す。ほとんど枚数がいかなかった日の翌朝のことだったのだろう。ほんとに笑ってしまう。だって、編集者にはいつもウソをついているということではないか。
 ここにさらに書き連ねる余裕はないが、一緒に事件の取材も随分こなした。佐木さんの仕事を担当することは編集者自らも身体を張って動くということであった。私はただ原稿を待つだけの編集者にはなりたくなかった。その原稿のどこかに爪痕を残したいと考えていたのだ。その意味でも佐木さんとの熱気溢れる仕事は、まさに私の望んでいたものだった。
 佐木さん、いろいろありがとうございました。来世でまた一緒に酒を飲みましょう。

 (めんじょう・つよし 元編集者、京都造形芸術大学教授)

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