書評
2016年1月号掲載
GODが宇宙の究極の謎を解く
――筒井康隆『モナドの領域』
対象書籍名:『モナドの領域』
対象著者:筒井康隆
対象書籍ISBN:978-4-10-117156-2
『モナドの領域』は、八十一歳の巨匠、筒井康隆の最新長篇。文芸誌〈新潮〉二〇一五年十月号に一挙掲載、たちまち雑誌が売り切れて、急遽増刷されたことでも話題を集めた。帯には「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」という、著者自身の言葉が引かれている。
もっとも、前作『聖痕』のときも、朝日新聞連載前のインタビューでは「最後の長編、ということになるでしょうね」と語っていたので、"最後"は信用できない。"最高"のほうも、なにしろ半世紀を超えるキャリアで綺羅星のごとき名作・怪作群を生み出してきた筒井康隆だけに、そのハードルはとてつもなく高い。筒井ファンほど眉に唾をつけて読みそうだが、そもそも『モナドの領域』とは、いったいどんな小説なのか。
冒頭は、五十歳になる美男子、捜査一課の上代(かみだい)真一警部が事件現場に臨場する場面。河川敷の草むらで、肩口から切断された、若い女性のものと思われる右腕が発見されたのである。つづいて片足も見つかり、小説はバラバラ事件をめぐる警察ミステリのように幕を開ける。
意表をつくのはこの先の展開。禍まがしい現場から、舞台は一転、近所の商店街にあるパン屋、アート・ベーカリーに飛ぶ。この店の看板商品は、近くの美大の学生をバイトに雇って動物形に成形させたバゲット風のパン。その助っ人にやってきた美大生の栗本健人は、手慰みのようにして、実物大の女性の右腕そっくりのパンをつくる。ケースに入れてあったそのパンは、美大で西洋美術史を教える(唯野教授ならぬ)結野(ゆいの)教授の目にとまり、新聞のコラムで紹介されたことで大評判に。それならばと店主が栗本に量産させたところ、これが大当たり......という導入は抜群のリーダビリティ。作中でも引き合いに出される川端康成「片腕」の官能性と、バゲットの食感が興味をかきたてる。
といっても、栗本がバラバラ事件の鍵を握っているわけではなく、その栗本を使って片腕のパンを焼かせたらしき超越的な存在が、今度は結野教授を動かし、GODと名乗ってその全知全能ぶりを広く世に知らしめることになる。
舞台はパン屋から公園へ、公園から法廷へ、TV生中継のスタジオへと移り、(作者が登場人物の口を借りるように)GODが結野教授の口を借りて縦横無尽に語りはじめる。『聖痕』では、登場人物のひとりが人類の未来について"突拍子もない長広舌"をふるう場面があったが、本書ではその長広舌がはるかにパワーアップ。GODはとめどなくしゃべりつづけ、人間たちをことごとく論破し、あるいは相談に乗って問題を解決してゆく。
ちなみに、文学賞の贈賞式なんかでご高齢の方が壇上に立つと、いつまでもスピーチが終わらない傾向があり、なるほど年齢を重ねることはいくらでもしゃべっていい特権を得ることなんだなあと思うわけですが、究極の演説特権保持者として神をキャスティングするところが筒井康隆らしい。アリストテレス君やプラトン君、イエス君からリオタール君まで融通無碍に引用しつつGODは演説をつづけ、生命、宇宙、万物についての究極の疑問にも明快な解答を与える(だからこそ"最高傑作"にして"最後の長篇"なのかもしれない)。
とはいえ、GODが人知を超えた神の言葉を発するかというと、そうではない。GODはあくまでも人間に理解できるようにしゃべり、理解できないことは相手の精神(悟性)に直接働きかけて理解させるという万能仕様。小説にとって作者は神であり、作中にどんな奇跡でも起こせるが、しかし商品として成立させるには、読者が理解できるように語る必要がある。その意味で、作者もGODと同じ限界に縛られている。
題名のモナド(単子)とは、ドイツの哲学者ライプニッツが考えた、世界の構成要素のこと。すべてのモナドは神のプログラムどおりに動く(予定調和)。そのため、"モナドの領域"という言葉は、作中では"神の守備範囲"みたいな意味で使われている。そこに生じた綻びを繕うためにこの小説の出来事すべてがあり、それもまたモナドにプログラムされていた――という究極の予定調和が物語を美しく締めくくる。このメタフィクション/パラフィクション的な(作中に作者や読者が登場するような)結末が、ミステリ的/SF的な解決ときれいに重なるところに、筒井康隆の天才がある。神を描いたくらいで"最後の長篇"と言われては困ります。
(おおもり・のぞみ 評論家)